アウトラインを決めずに7000文字の記事を書いた結果……
昨日はテキスト量マシマシの記事を2本、アップしてみた。
最初に上げた「記事(文章)を最後まで読んでもらうために」は7000文字超ある。次に予約投稿で上げた「外食時に料理をパパっと美味しそうに撮影する方法」も4000字以上のボリューム。書くことは苦にならないのだけれど、アウトラインを決めずにダラダラ書いてしまったので、タイトルを付けるのにメチャクチャ苦労した。苦労したっていうか、結局うまい表題を付けることはできなかった。大失敗。
結局、わたしは何が言いたいんだ……自分の書いた文章を何度も読み返し、後付けで背骨を通してゆく。シンプルに表題につなげるためだ。しかし左右にブレている文章は、長くなればなるほど大きな歪みを生み、ダリの描いた柔らかい時計みたいに全体がぐにゃぐにゃに歪んでしまう。ウンウン唸りながらセンテンスを直し、段落を直ししているうち、「あっ!書きなおしたほうが早かった!」となるのが、こういう場合の着地点である。しかし、そんな風に気づいた時にはもう後戻りできないところまで進んでしまっているのだ。だから泥沼と呼ばれるのだ。
「失敗した文章には固執せず、スパッと捨て去って一から書きなおすべし。」
基本的なお約束をすっかり忘れて時間と体力を無駄にしてしまった。
パートナーにそのことを話したら、「ふぅん、記事を幾つかに分ければ良かったんじゃない?」と言われた。うわあああああ!そうか!そうですね、そんな手もございましたね!筋ごとに分割して肉付けしてやったら、まとまりのある読みやすい記事が何本かできあがったろうに。それなりに関連性もあるからシリーズ記事みたくできたかもしれないじゃないかああああ!ヤダー!(泣き崩れる)
(いい加減な性格が災いし、後悔と疲労だけが残った例)
わたしは部屋の隅でしばらくグズった。およそ34分43秒後にヨロヨロと起き上がり、大好きな沙村広明の『ハルシオン・ランチ』をトイレで読んだ。
沙村広明LOVE。圧倒的に絵のうまい作家さんです。
本日のまとめ
なんだかんだで基本的なことがらの幾つかを思い出せて、新たに気づきも得ることができてよかった。ともかくやってみるものですね。ブログなんて失敗したって死にやしないんだし。
長い文章を書くときは、天賦の才を持った文章の申し子とかでないかぎり、書き始める前にきちんとアウトラインを決めようネ!しぬよ!
文章制作は計画的に!
リスタートおじさんとの約束だよ!
外食時に料理をパパっと美味しそうに撮影する方法
(質素なたたずまいの朝そば-iPhone撮影)
朝、目を覚ましたら、空気がひんやりしていることに気づいた。
寒っ、秋みたいだな……なんて思いながら身体を起こすと、パートナーはもう起きていて机に向かっていた。「おはよう」と声をかけると、はっきりした声で挨拶が返った。今日は起きてすぐに薬を飲んだのでばっちり覚醒していているとのこと。何日か前に過眠症の症状が出て丸2日感眠っていたけれど、このところは比較的調子が良いようだ。
起きて10分ほどして、わたしは日本そばを茹で始めた。だって寒いんだもの。体を温めるか、長袖を着るか、とても悩んだ。朝食もまだだったし、わたしは温かいおそばを食べることにした。
湯を沸かし、たぶん100円ショップで買ったそば(乾麺)を2人前茹でる一方で、フライパンに丼2杯分の湯を沸かし、そばつゆを入れて味を整える。だしをパラパラっと。冷蔵庫にあったもやし、ちくわ、大葉を入れて少し煮こむ。そばが茹で上がったら一度水で締め、ふたたび湯に戻す。おつゆには溶いた片栗粉で少しだけとろみをつけた。最後に丼にそばを盛りつけ、おたまで具入りのおつゆをドバーッとかけて完成。海苔を載せて、行儀の悪いちくわを整列させた。
iPhoneで写真を一枚。パッと見て乱雑に散らばったもやしがノットビューティフル。写真自体の色合いもあんまり美味しそうじゃない。わたしがディレクターなら一瞥してリテイクを出す出来栄えだ。料理の写真を美味そうに撮るのはほんとうに難しい。フードコーディネーターやカメラマンの人たちは大変だなぁ……。
わたしも下北沢で新規オープンする創作料理店の全メニューを撮影したことがある。撮影時には「美味しそうに見える」だけではなく、「目を留める」、「注文したくなる」画像を撮影しなくてはならない。こうした場合には、実際食べるにはまだ調理が足りない状態で撮影をすることもごく普通だ。霧吹きやら小道具やらを使ってシズル感を演出したり、普段は火を通す食材を生のまま使ったりもする。場合によっては簡単な着色だってする。
撮影し終えた料理はシェフの方がふたたび厨房に持って帰り、きちんと調理して持ってきてくれた。わたしはほんの数時間の間に、お店で提供する全メニューを平らげた。撮影終了後、「満腹すぎる中年」の称号を手にしたわたしは下北沢の駅前でずいぶん長い時間うずくまっていた。翌日、体重は3キロ増えていた。料理はとっても美味しかった。
後日、現像からメニュー入稿までお手伝いさせていただいて、お店にも何度か足を運び、そのうち何回かはどうしてもということでご馳走になった。本当に美味しいお店だったのだけれど、場所が悪かったか、お店は残念ながら短い期間で潰れてしまった。メニューやらなんやらを制作したわたしも責任を感じた。
マクドナルドのメニュー画像の制作過程を動画で見てみる。
たかがチーズバーガー(すみません)の画像ひとつにものすごい労力が払われている。
Behind the scenes at a McDonald's photo shoot ...
彼らだって実際に店舗で提供されるチーズバーガーの悲惨極まりない絶望的なビジュアルは知っていることだろう。けれども、彼らが制作しているものはそれとは別物だ。見込み客を購入まで導くための極めて重要なプレゼンテーションを、たった1枚の画像で完遂しなくてはならない。商品の詳細をひと目でわかるようにし、なおかつ美味しそうに。お客さまに「これください」と言わしめるように。お客さまが心に思い描いている「本当に食べたいハンバーガー」を正確に表現するのだ。
まさしくプロの仕事である。
だから、レストランなどでメニューを見て「写真と全然違うじゃんwww」なんて言ってはならない。メニュー掲載の画像と、実際に供される料理では目的が違うのです。ファミレスレベルの飲食店において、もし仮にメニューに載っているのがすべて「実際に提供される料理の画像」だったら、こんなに辛いことはない。夢がないからだ。意思決定は「これが食べたい!」ではなく、「あー、これでいいや」になってしまうだろう。
外食には夢やワクワク感がなくてはいけない。笑顔がなくてはならない。少なくとも
料理がテーブルに運ばれてくるまでの間は。たとえ何度踏みにじられても。何度裏切られても、わたしたちは夢をあきらめない。あきらめてはならない。そこ(メニュー表)にホスピタリティに満ち溢れた魅力的な料理たちが待っていてくれる限りは。
(現実に負けるな!)
料理を美味しそうに撮影するコツ
ブログやTwitter、LINEなど個人で使用する目的でお料理を上手に撮影したい……といっても、一眼レフカメラにレフ板を用意して三脚立てて……なんていうのではなく、友人や家族、恋人との外食のときなどに、出てきた料理を気軽にササッと撮影したい。でもって、できるだけきれいに美味しそうに撮りたい。
そんな方は以下のテクニックを参考にすると良いと思う。
この記事では、以下のテクニックを紹介している。
とりあえずはこれだけ気をつけていれば十分という感じだ。さすがLIGさん。
これはわたしの個人的な考えだけれど、プロではない人が料理の写真を比較的上手に撮るためには、技術よりも意識のほうを変えると良いと思う。
- 料理のどこに惹かれるか、どこが魅力的に見えるかを確認する
- カメラを向ける前に「写真を見た人にどう感じて欲しいか」をイメージする
- (お皿も含めた)料理全てをフレーム内に収めることにこだわらない
- ときには人間の視点から離れてみる(フォークやナイフの視点で撮ってみるとか、テーブルに乗るくらいの小人になったつもりで料理を見てみたりだとか)
今思いつくのはこんなところ。
ともかく意識を変えることができれば、あとは簡単だ。テクニックはネットを始め巷に溢れている。最近はコンデジだってものすごい高性能だ。カメラ内で画像調整までできるものだってある。撮影だってカメラにお任せでそこそこ良い写真が撮れる。わたしのコンデジにもお料理撮影モードがある。
この記事はちょっとプロ寄り。カテゴリーとしては「商品撮影」になる。そのため「楽しい外食の最中に料理をササッと撮ってSNSなどにUPする」という目的には合わない。けれども、参考になるアドバイスはいくつも含まれている。
記念写真を思い出してください。
例えば後ろにお城があり、人が5人ぐらいいる記念写真を撮るとします。たいていはせっかくだから、お城も入れましょう。あら後ろの木も素敵ね。そして人物も入れましょう。となると撮影する人がどんどんと後ろに下がっていき、そこでシャッター!出来上がりは、人が真ん中にいて、お城も、人も、木もみんな小さく写ってしまい、本当の記念写真になってしまいます。これがまさに日の丸構図の写真なのです。
これなんて秀逸。
あれもこれも入れようとすると、本人以外には「あれもこれも写ってるけれど、なんだかわからない写真」になってしまう。
パン美味しそう……この記事では被写体に対する光の向きについての説明がすてきだ。
光の当たり方と明るさも重要なポイントです。料理の場合、光の向きを逆光気味で撮影するとおいしそうに撮れます。順光で撮影すると、素材の形や色ははっきりとしますが、影や光の透過がないので立体感が出にくく、のっぺりとした印象になってしまいます。
3つの記事を見てきた。さしあたりこれで十分だと思う。
検索するとまだまだテクニック系の記事はわんさかある。けれども、まずはどんどん撮影することが大切だ。撮影を続けるうち、具体的にああしたい、こうしたい、という欲求が湧いてくるから、それをひとつひとつ潰していけば、知らぬうちに達人になっていることだろう。そしてカメラ沼に落ち、ヨドバシカメラの中判デジタルカメラのコーナーをうろついたりすることになるのだ。わーい仲間!
本日のまとめ
お料理を美味しそうに撮りたいという欲求はわたしにも強くある。けれども外食のたびに一眼レフを持ち歩くのは面倒くさいので、外食時も自炊のときも結局はiPhoneで撮影している。そしてとくに加工もしないでそのままUPしてしまう。気にしなければ気にならないものだ。(した方がいいんだけれども)
さて、おひとりさまならば良いけれど、誰かと食事するときに絶対に忘れたくないことは、目の前にいる人と美味しく楽しく食事をする、ということ。料理の写真を撮ることはあくまでその次のことだ。熱々の美味しい料理が運ばれてきて、「わぁ!グツグツ言ってる!美味しそう!」なんて盛り上がる中、テーブルに着いている人のひとりが「ちょっと待って!撮らせて!」なんて言ってあらゆる角度から撮りまくっているうちに料理が冷めてしまったりしたら、人によっては二度と同じテーブルには着いてくれないだろう。頑固親父の店なら厨房から出刃包丁が飛んでくるかもしれない。
もちろん、その場にいる人すべてがそうなのであれば、この限りではない。でも、作った人は熱いうちに食べて欲しかったな……と落胆しているかもしれない。
写真を撮る際、「写真を見た人にどう感じて欲しいか」を考えると良い、と書いた。しかし「今、楽しい時間を共に過ごしている相手に(自分のことを)どう感じて欲しいか」のほうが大切だということも忘れてはいけない。ホスピタリティと感謝の気持ちをもって、今ここにしかない、二度と訪れることのない瞬間を心から楽しもう。
もちろん、日ごろからムカついているハゲのスケベセクハラデブ上司から強引に誘われた食事ならば、一眼レフカメラに1200ミリの望遠レンズを装着し、テーブルから50メートルの彼方に頑強な三脚を立てて料理が冷めきるまで撮影しまくればよろしい。スケベセクハラデブ上司にはレフ板を持たせ、「これで反射するものがふたつになりましたね^^」とか言ってやれば……いやそれはさすがに言い過ぎだろう。大人として社会人として、無難にやり過ごそう。
お昼に食べたおそばは、もやしにそばつゆの旨味が染み込んでいて、とっても美味しかったです。幸せ。
記事(文章)を最後まで読んでもらうために
もうずいぶん昔のことになるけれど、文学の作家を目指していたことがある。
近所に住んでいた作家先生に師事し、たまに作品が仕上がると持っていて読んでもらっていた。「作品が仕上がると」なんて言っているくらいだから、制作のスピードは誰よりものんびり。先生には毎回「論外!こんなつまんねぇのに1ヶ月もかけたのか!?どうせつまんねぇなら4つくらい持ってこい!どんどん持ってこいボケ!」と言われた。
毎月末の土曜日には、老夫婦が営む喫茶店に先生と弟子が集まる定例会があった。定例会では多くの弟子がひと月で書き上げた自信作を持ち寄り、先生からこてんぱんにやられるという儀式が行われ、それが済むと皆で軽食をつつきながら夕飯どきくらいまで小説談義に花を咲かせるのだった。まれに先生が知り合いの有名作家を連れてくることがあり、そんなときは深夜や明け方まで業界話で盛り上がった。
あるとき、そんなゲストの作家先生から突然「君はどうして作家になりたいの?」と聞かれた。たぶん明け方のことで、外が少し明るくなってきていたと記憶している。わたしは眠くて船を漕いでいたのだろう。先生はそんなわたしを見かねてか、急に話を振ってきたのだった。
わたしは「甚平着てても髪伸ばしてても変人と思われなさそうなので」と答えた。作家先生は「なるほどね」と受けると、また別の作家志望の子におなじ質問をするのだった。そのうち質問が一周回ると、作家先生はふたたびわたしのほうを向いて「あー、僕は変人に見える?」と聞いた。わたしは「変人っぽいです」と答えた。作家先生はハハハと笑って、「これで意外に常識人なんだぜ?」なんて言っていた。わたしも雰囲気につられて笑った。
作家界隈の集まりは楽しいものだった。しかしわたしは当時サッカーに夢中だったので、定例会とは自然に距離ができ、そのうちすっかり行かなくなってしまった。そうしているうちに先生が亡くなった。通夜の席で久しぶりに他の弟子と顔を合わせると、「おまえ、もう書かないの?」とか「先生、心配してたぞ。なのにお前は定例会に顔も出さねえで」なんてずいぶんと責められた。ただただ申し訳なくて、何か言われるたびにペコペコと頭を下げて謝罪の言葉を口にした。肩身が狭かった。
通夜が終わり、翌日には告別式も終え、わたしは日常に戻った。今後の定例会には先生と親しかった作家さんがしばらくの間来てくれることになったと聞いた。わたしは結局一度も行かなかった。本はたくさん読んだけれど、作品を書くことはなかった。
何年かしてから、ふと思い立って文学の新人賞に応募した。結果はもちろん落選。けれども担当者から「あなたには書きたいものがあるね」と言われ、都内の喫茶店に呼び出された。いそいそと出て行くと、気難しそうな男性が待っていた。わたしは「どうも」と挨拶をして、席に着いた。相手の男はわたしの原稿を鞄から出すと、「あ、これ返しておくね。普通は返送なんだけど、せっかくなんで。ご苦労様。」と言った。落選作品。わたしはふと恥ずかしくなってそれをすぐに鞄に仕舞った。喫茶店での話はそんなにたいした内容ではなかった。「また書いたら見せてね」とは言われたけれど、社交辞令だろう。わたしはまた書くことから遠ざかった。
新人賞には毎年膨大な数の応募がある。まず文章がまともでないのを取り除くと作品は半分以下になる。それを下読みと呼ばれる担当者がバーッと読んでいく。作品が100ページあろうと500ページあろうと、書き出しがダメならその時点で落選が決まる。下読みは一人当たりで考えても膨大な作品数が振り分けられるから、最初の数行で明らかな駄作とわかるようなものを全部読む暇などないのである。
小説において、書き出しはとても大事だ。先生もよく言っていた。「よっぽど話題の作品でもない限り、一般の読者だって書店でパラパラっとやってよ、下手すりゃあ数行眺めてツマンネっつって永遠にバイバイだよ。逆に最初の数行でガッと捕まえちまえば一応は手に取ってもらえる。まぁ、作家は本出た時点で印税もらえるけどよ、売れねえんじゃ次がねえだろ。だから大事なんだよ、書き出しってのは。おめえのは最後まで読んでもらえるのが前提になってんだ。だから書き出しが甘ぇし緊張感もなにもあったもんじゃねえ。こんなんじゃ賞なんて永遠に取れやしねえよ」
このときはあまり意味がよくわからなかった。
このクソジジイ好き放題抜かしやがって……とか思っていた。
あれから20年以上経った。
副業としてデザイナーをしながら、IT系の会社やらネットショップやらで社員として働いた。特にネットショップの運営をする中で興味を持ったSEO(検索エンジン最適化)やWebライティング、コピーライティングなどについては独学ながら勉強し、いくつかの関連資格も取得した。数百の自社商品の商品説明やキャッチ、メールマガジン、お客さま対応など、文章を書く場はいくらでもあった。
「ネットショップの文章」は常に相手のあるものだ。もっとも重要なものは「資料請求してもらう」、「商品を購入してもらう」、「会員登録してもらう」など、相手に行動を促すための文章だろうか。(CTA=コール・トゥ・アクションという)
具体的には顧客のペルソナ(仮想の人物像)を立て、設定した仮想の人物に対して、いつ、どのようにアプローチしたら自分たちの望む行動を取ってもらえるかを綿密に練って、丁寧にウェブページに展開してゆく。UPしたページはアクセスデータを取り、検証し、質を高めていく。これを繰り返しながら質を高めていく。
クレームに対する返信、返答には、相手が何に対して怒っているのか、何に対して不信感を抱いているのかを汲み、その部分をケアする文章や回答を送らなくてはいけない。なんでもかんでも謝ればいいというものではない。適当に謝罪することが、相手の怒りに火を点けることもあるのだ。
約8年間、ネットショップの運営に携わった。一流どころのコンサルとも知り合うことができ、たくさんのことを教えてもらった。学び、実践する中でわたしの文章に対する考えかたはすっかり変わった。今ではかつての自分がたとえ寡作であったとしても、作家になれなかっただろうなぁ……と半ば確信的に思う。
……というわけで、やっと一段落。
ここまでの話をブログの運営に役立つように応用できないか、考えてみよう。
あっ、そうだ。以下は基本的に個人の日記ブログとかよりも、積極的に集客したいブログに向いた内容になっています。でも、日記やつぶやきのブログにも役に立つように努めて書いてみます。
1.「タイトル」、「書き出し」が大事
前述の新人賞にしたエピソードに「書き出しがダメならその時点で落選が決まる。」と書いた。また、先生の「書店でパラパラっとやってよ、下手すりゃあ数行眺めてツマンネっつって永遠にバイバイだよ。逆に最初の数行でガッと捕まえちまえば一応は手に取ってもらえる」という言葉。
とにかく、書き出しが大事。全文を読んでもらえるかどうかは、書き出しで興味を惹けるかにかかっている。最初の段落で「つまんなーい」と思われればただちに試合終了。読者はあっという間にそのブログを去ってしまう。
しかし、もっと前の段階で読者の目に触れる文章がある。それはタイトル(表題)だ。
1-1.読まれるタイトルの作り方
読者はさまざまなルートを経てブログにたどり着く。例えば検索エンジン。例えばはてなブックマーク。例えばはてなブログの人気記事のコーナー。いずれにせよ、最初に目にするのは「記事タイトル」だ。検索上位になろうと、はてブのトップページに表示されていようと、タイトルが刺さらずクリックしてもらえなければ永遠にさようならだ。やだーいかないでー!
タイトルについて、縁のない方にはかなり専門的な内容になるけれど、以下の記事が参考になると思う。もしSEO等に明るくない方でも、恐れずに専門的な内容は読み飛ばして、わかるところだけ読んでもらいたい。きっと参考になるはずだ。どれも超有名サイトなので、既読の方もいると思う。
3つ目のの記事の「ウケるタイトルを作るのに大切な、たった1つの真実」なんて、今となってはいやらしさすら感じるけれど、今でも有効なことは確かだ。「◯◯するならこれ!簡単に◯◯できる驚きの◯◯術10選!」なんてのは死ぬほど見かけますね。わたしもやりました。(笑)
……絵が悪いんじゃないの?(笑)
個人の日記ブログなどでは、タイトル作りにこういった手法を使う必要はない。もちろん、使ってもよい。直感的に浮かんだ言葉をタイトルに付けたり、「無題」にしたり、本文とまったく関連性のないものにしたってまったく問題はない。
1-2.どんな書き出しがいいの?
ECサイトではファーストビューに表示されるコンテンツを厳密に検証する。ファーストビューとは「閲覧者の画面にWebページを表示した時に、最初に表示される領域のこと」だ。ブログの場合は書き出しの段落や目次、あるいは画像が表示される領域だ。
商業的なサイトとは違い、ブログの場合は表示された領域だけパッと見て離脱することはないだろう。少なくとも本文中の最初の段落くらいまでは目を通すはずだ。つまり、ファーストビューというより、最初の段落あたりまでで記事を最後まで読んでもらえるかどうがの決まると思われる。
書き出しについて考察している記事があった。
さっそく読んでいこう。このブログ……あらゆる場所でギャル画像が不必要かつ異様に多用されていて噴く。何が目的なのw……しかし書かれている内容は極めて真剣だ。順に読み進めて……読み……進めtプフォウwもう無理ww!(噴き出しつつクローズ)
本文最初の段落にたどり着く読者は、タイトルを読んで何かしらの興味をもった人間だ。だから、書き出しがタイトルにそぐわない内容だと離脱されてしまう可能性もある。タイトルが「アクセスを3倍にする魔法のコーディング術」なのに、最初の段落で延々とエビピラフづくりに失敗したエピソードを書いていたりすると、読者は望む情報がないと判断して離脱してしまうことがある。だから、タイトルと本文の冒頭部分は一連の文脈を持っていることがひと目で分かるようにしなくてはいけない。
ECサイトなどでは、トップページのバナーと誘導した先のランディングページ(この場合バナーをクリックすると表示されるページ)が同じ内容であることをユーザーに伝えるために、同じ画像、同じロゴ、同じカラーなどを使って両者をデザインするというのが極めて一般的だ。
そういう意味において、本文の前に目次を設置することは、極めて有効であるといえる。タイトルとの連携も深く、しかも本文の内容を鳥瞰することができるからだ。読者は目次を確認してから、「この記事はタイトルの通り、自分が興味を持った内容を伝えてくれる」と安心して本文を読み進めることができる。
個人の日記のブログなどでは、こんなことはまったく気にする必要はない。けれども、多少気にすると「そこそこしっかりした日記ブログ」のような評価を得られるかもしれない。
2.本文の書き方
タイトルをクリックしてもらうことに成功し、書き出しで離脱されることも回避し、読者が熱心に本文を読み始めてくれた。ここで必要なことは、引っかかりなく最後まで読み通せることだ。つまり、読みやすさだ。まわりくどい言い回しや不必要に難解な言葉を使うことで、読者が「記事から情報を得る」プロセスに余計な障害を作らないことだ。
「腑に落ちる」という言葉がある。
誰でも本やネットの記事などを読んで、「ああ、そうだったのか」と腑に落ちた経験は持っているだろう。あのときの喉元からスッと臓腑に落ちる感じ。あれを邪魔しないように文章を作ってゆこう、ということだ。のどごしの良い文章は読者に快感を与え、その快感は読者を再びあなたのブログに向かわせるだろう。
そのための文章作成技術は書籍やネットでいくらでも知ることができる。わたしには人に文章の書き方を教えられるような技能はない。こればかりは良書で学びながら、どんどん書いてゆくしかない。そして書くだけでなく、たくさん読まなければいけない。文章制作と読書は両輪である。文章力を付けたいならば、どちらも欠かしてはいけない。
わたしのおすすめの書籍は以下の通りだ。
左2冊は簡潔に読みやすい文章について解説していて、非常にわかりやすかった。本当におすすめ。一番右の本は今読み返してみたら文章ネタじゃなかった……でも、ブログ運営を考える上では面白い本なのでおすすめしておく。レビューも合わせてリンクしておく。
ネットにも文章制作に関して優れた記事はたくさんある。先に上げたバズ部さんの記事「文章のプロ直伝!素人でもプロ並に書けるようになる5つのテクニック」は大いに参考になる。他にも検索するといろいろ出てくる。
いい加減なものも多いけれど、有益なものもたくさんある。 クオリティーの低いハウツーものも、良いものと合わせて多読していけば、得られるものもある。あなたがもし文章を書くことにまったく自信がないのであれば、この際質は横においてどんどん読んでいこう。
2-2.個人の日記・つぶやきブログはどうしたら……
わたしのブログもそうだけれど、自由にやるのが良いと思う。「自由にやるにしても文章は上手になりたい」というのであれば、上記の書籍やサイトなどを参考にしながらどんどん書けば必ず上達するはずだ。
でも、生活のかかったアフィリサイトを運営するのでもないのなら、なるべく楽しく、けれどもネガティブからポジティブまで、思うままに日々書き連ねていくのが一番だと思う。ありのまま書いてくれる方が人となりも伝わってきて読む方も楽しいし。それに、日記ブログなどの個人的な文章にもっとも必要なのは、技術としての文章力よりも、感情豊かで生き生きとした輝くような表現だ。
もし日記ブログをたくさんの人に読んでほしいと思うならば、他の日記ブロガーとSNSや相互ブックマークなどで交流したり、毎日欠かさず更新するほうがよい。楽しい居場所を作るには不特定のアクセスを集めることよりも親しい仲間たちや趣味嗜好の似たひとたちとコミュニティを作るのが一番だ。物言わぬ1000万人の読者より、「すごいねー!」と言ってくれる100人の読者のほうがずっといい。
どういうふうに書いたら読者に自分の感動や喜びが伝わるか、一生懸命考えて書いてみよう。きっと自分だけの表現が見つかるはずだ。
本日のまとめ
なんだか文章書ける人みたいな感じで書いてしまいましたが、お読みいただけばわかる通り、わたしも「上手な文章書きたーい!」と日々勉強している身です。この記事も8割がた自分に向けて書いています。
ネットに、書店に、世の中に良い文章を書けるようになるためのヒントは山ほどあります。みんなで文章力を磨いて、日本のコンテンツの質を向上させてゆきましょう!
今日は9時ころに予約投稿しているので、もう一度更新があります。
そっちでは「料理を美味しそうに撮影するテクニック」について書いたような気がします。
旬のテーマ「2015夏のひとごと」
(無職の自我を守る自己防衛本能による誤読)
なんとなく旬のテーマでも書こうと思ったら、お題が「2015夏の人事」とか、今のわたし(無職)にとってあまりにも過酷なテーマだったので「人事」のところを「ひとごと」と読むことにした。
こんなのひどいよ……タンポポに「シマウマ肉の魅力について3000字以内で説明せよ」っていうお題を出すようなもんだよ……タンポポはダンデライオンであってライオンではないんだよ。草なんだよ。そして無職は正社員じゃないんだよ。よくもこんなお題を……はてなめ!わたしを雇ってください。
しかし哲学的に言うならば職無しもまた職であるからして、わたしの「なつのじんじ」は異動なしと言うことも可能だなぁ、と思った。泣いてなどいない。
今日のまとめ
自虐ネタはよくない。
昨日のアクセスが2000を超えました。少し前なら1.5ヶ月分のアクセスです。続けていると良いことあるものですね。励みになりました。
でも、なんだかアクセス数に呑まれてしまって今後気楽に書けなくなりそうだったので、いったん盛大にスベってみようと思いました。ズコー!
明日から仕切りなおしてがんばろう。
それと、マウスで絵を描くのは結構骨が折れるので、ペンタブレットをPCにつなごうと思う。
(トピック「転職」について)
怒髪天、ぐったり、びっくり。ブラック企業エフェクトでスマートニュース初掲載。
やっと訪れた幸せと安堵→絶望と怒りという急転直下を味わってから明けて一夜。わたしとパートナーはぐったりと午前中を横たわって過ごした。昼過ぎ、空腹を感じたのと、いい加減起きて動かなくてはと思ったのとで、わたしはラーメンを作り始めた。
玉ねぎ、にんじん、キャベツ、豚肉を炒め、コチュジャンや豆鼓、豆板醤、塩コショウにお醤油、鳥だしなどで下味を付け、お湯、粉末スープを注いで少しだけ煮込みスープを作る。最後に溶き卵をし、片栗粉を溶き入れてとろみを少々。お酢も少々。これを茹で上がった麺の上からたっぷりとかけて、スーラータンメン風ラーメンの完成だ。手前味噌ながら、なかなか本格的なビジュアルのものができた。(写真撮り忘れました)
「いただきまーす!」
いつものように手を合わせ、ふたり向き合って食べた。パートナーはスープをひと口飲むや、「うめー!」と歓声を上げ、具と麺はもちろんのこと、汁まで完飲してくれた。ラーメンの汁を全部飲むのは身体には良くないのだけど、満足そうなパートナーの表情と空っぽになったどんぶりが、わたしには嬉しかった。ちなみにわたしはお腹いっぱいになってしまい、スープを残した。
さて昨日の件。まだ怒りはメラメラと燃えているのだけれども、たくさんの方から冷静なコメントをいただいて、「うんうん、そうだよね。その通りだよ……」と、いくらか心が落ち着いた。世の中にはこんなにも多くしっかりした考えを持った人たちがいるのか……と、安心した。皆さんありがとうございました。
あの不誠実で傲慢無礼なブラック企業のイカスミ野郎はわたしが手を下すまでもなく、いずれ天の裁きを受けるだろう。今、怒りに任せて争ったところで、時間を無駄にし、消耗するだけなのは目に見えている。きっぱり忘れて前を向こう。
スマートニュースに初掲載
喜びから一転、がっかりという内容の昨日の記事が、はてブのトップページに載ったり、はてなブログの人気記事コーナーに表示されたり、スマートニュースに掲載されたりした。グノシーからのアクセスもあったので、グノシーにも載ったのかもしれない。ともかく、わたしの記事としてはかつてない規模で拡散されたのだった。
例えばこの記事みたいに、いろいろ調べて考察した記事が拡散するならとても嬉しいのだけれど、昨日の記事のような「ホッとしました焼きそば食べたらあんま美味しくありませんでした地獄の釜の蓋が開きました畜生うわああああくやしいいい!」というきわめて日記的内容のもので初めてのスマートニュース初掲載。正直なところ、複雑な心境だった。もちろんドキドキもしたし、スマートニュース掲載時のスクリーンショットも記念に撮った。
他のブロガーさんたちもよく書いているけれども、本当に「どんな記事がアクセスを集めるか」というのはコントロール出来ないものなのだなぁ、と実感した。プロブロガーと呼ばれる人たちはある程度コントロールできたりするのだろうか。
(スマートニュース初掲載時の正直な気持ち)
なんにせよ、わたしには経験が足りない。やり続ける中でしか身につかない、気がつかないものはたくさんあるのだから、まずはやり続けてゆこうと思う。その間は鬱からも距離をおいていられそうだし。
まだしばらくは毎日の更新を頑張って、レスポンスに一喜一憂すればよい。
ライターをやってみよう!
クラウドソーシングなどで受けることができるライターの仕事にチャレンジしてみようと思っている。自信がなくて踏み切れずにいたのだけど、元Webライター・翻訳家のぷちこんぶさんという方に「これだけかけたらライターもいけますよ~」と言っていただいて、勇気が湧いたのだ。(ぷちこんぶさん、ありがとうございます!)元本職の方のお墨付きなら安心して信じられる。
しかしクラウドソーシングで募集しているライターの案件は報酬が激安だ。わたしの印象では1時間檻の中で飢えたグリズリーと素手で殴りあって、ようやくうまい棒(サラダ味)を1本もらえるというくらいの恐ろしい報酬相場なのだ。地下で働かされているころのカイジだって、もう少しもらえるのではなかろうか。本当に生活の足しになるのだろうか……。
しかし、そんなわたしの不安をこの記事が拭い去ってくれた。仕事を順調にこなしていけば報酬は上がってゆくとのこと。(ただしデキが良い人に限る)
どうせこのまま何もしなければお金は1円だって入ってこないのだから、安くともやれることをどんどんやってゆくしかない。贅沢言っている状況ではないんだ。
昨年取得したネットショップ実務士、ネットショップマスターの資格やSEOの知識などを活かして、毎日バンバン書きまくって家賃と光熱費くらいはなんとか賄えるようになれたらいいなぁ。
本日のまとめ
本意ではないながらも、自分の書いた記事にたくさんのアクセスが集まったということには一定の達成感や喜びを感じた。これも自分が「書いた」からこその結果なのであって、何もしなければ何も起きなかったことは言うまでもない。とても大切なことだ。
昨日の記事はブラック担当者の誠意の欠片もないイカスミ対応あってのものだけれども、感謝なんてしないぞ!新鮮な白子にぶつかってチャプチャプのたうち回ったあとで地獄に落ちろ!
しかし、本当に世の中って思い通りになりませんね。なにひとつ。
がんばろ。
「採用します」→「ごめんやっぱ無理!」という連絡が来た件
(昔描いた絵。-photoshop)
パートナーの仕事が決まった。
「もう後がない。これで決まらなかったらスーパーとかも検討しなくちゃ……」という状況だったのだけれど、そんな中で希望していた医療関係の職に就けることになって本当に良かった。
一点だけ、面接時に担当者が「他のパートさんがみんなそうなので、自転車通勤ということで交通費なしでもいいですか?」というようなことをぬかしよったということがわたしは気に食わなかった。採用の通知が来たのち、わたしは「数キロというのは自転車通勤の距離じゃないよ、きちんと交通機関を使って通勤すると伝えて、交通費はちゃんと出してもらいなよ。」と多少の怒りを込めて言った。
パートナーは「そうだね。そうする。」と応え、採用を受ける連絡の際にその旨を伝えると、あっさりと了承された。聞いていた話からの印象でバリバリのブラック企業かもしれない……と訝しく思っていただけに、少々拍子抜けした。でも、良かった。パートナーは日ごろから転んだりぶつかったりということが多い人なので、自転車通勤は心配だったのだ。というか、数キロを毎日のように通勤するのに、会社側から「毎日自転車で来てくれ、でも自転車だから交通費出ません。あなたにだけ交通費を出すと他のパートさんたちにちょっとアレでしょ?」なんていうのは明らかにおかしい。この先、他にもおかしなことを言ってきそうだ。でも、パートナーはそこで働くことを選んだのだから、応援するのがわたしの役目だ。
「ともかく、おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
なんてやりとりをして、そのあとはちこたんと遊んだ。パートナーはお酒を飲みつつドーナツを食べていた。わたしはUFOのチーズカルボナーラ味の油っこさに負けて吐き気がひどい状態だったので、セブン-イレブンのアイスコーヒーを飲んでいた。
(がうー!)
100円ショップだかで特売されていたものだ。きっとあまり売れなかったのだろう……わたしはUFOが好きなので、わずかな期待を込めて2つ買い求めていた。この手の「変化球系」でおいしいものに出会ったことはほとんどないのだけれど、何度がっかりさせられても「今度は美味しいかも……」とふたたび買ってしまう。
実際に食べてみた感想は、
チーズ味の物を期待していたのに普通のペペロンチーノにチーズを少し振りかけた以上のものではないんですこれ。
この記事で言われている通りだった。
麺ができあがったらソースを入れ、最後にチーズを振りかけて食べる。しかしこのチーズがよろしくなかった。もう買い求めることはないと思うけれど、もし食べる機会があったら、チーズは入れずに食べよう。
なんて書いていたら、先ほど採用された会社から「ごめん、やっぱ無理だわー採用はなしで、なかったことで!」という連絡が来た。これだけいい加減なことをしておいて、お詫びの言葉もなかったそうだ。夜の10時に電話してきて「夜分遅く申し訳ありません」でもなく、「ああ◯◯さんですか?さっきの話ですがやっぱり不採用で(中略)じゃあ、そういうことでよろしいですね?では」と言いたいことだけ言って電話は切れたという。
なんなんだこの会社は……。
パートナーもわたしも怒り心頭だ。
結果的にこんなおかしな会社にうっかり就職することにならなくて良かったのだとは思うのだけれども、不誠実な対応に湧き上がった不愉快な気持ちはしばらく収まりそうにない。大切なパートナーを軽く扱われたことも我慢ならない。けれどもできることはない。くやしい……。パートナーはもっと悔しいだろうな。やっと職を得られたとホッとしたところにこれだもの……。
今日のまとめ
涙が出るくらい悔しい。
いったん採用しておいて、やっぱ不採用ねー!って、そんなことしていいのだろうか。週明けに労働基準監督署に相談してみよう。
図らずも冒頭のイラストが記事にマッチしてしまった。
ちくしょー!
最近、笑えてますか?~笑いの種類について考えてみた~
わたしはとてもよく笑う人間だった。
けれどもある時ふいに鬱という穴ぼこに落ちてしまい、すっかり笑わなくなってしまった。笑えなくなったのではない。笑わなくなった。笑わず、考えず、動かず、ひたすら鬱のやわらかく重い泥の中で膝を抱えて浮き沈みすることを繰り返した。ときおり立ち上がろうとする理性を殺すために、気を失うまでアルコールを飲んだ。顔は穴の空いた肉だった。わたしは意識のあるときはずっとその穴にアルコールを流し込み続けた。わたしの唯一の仕事だった。我に返ると、数日も経っていた。最期に食事を摂ったのはいつだったかな……まぁ、どうでもいい。身体、重い……眠りたい。お酒は……
なんていう暮らしから這いずるようにして抜けだしてからひと月くらい。ずいぶん良いところまで回復してきた。これも家族と、はてなブログと、当ブログを読んでくださる皆さまのおかげです。ひいては、この社会が存在してくれているおかげです。ありがとう地球!ありがとう全人類!ありがとうマイファミリー!!ありがとう!そして、ありがとう!!!
というわけで、最近のわたしはよく笑うようになった。昨日などは業務スーパーの野菜売り場でセール価格の水菜を持ってはにかんだりしていたほどだ。なにそれこわい。
さて、上記のような体験をしてみて、人間は暮らしの中に「笑うこと」が必要だということを実感したわたし。よく笑うようになった今、一度「笑うということ」について考えてみようと思い立った。けれども、「人間はなぜ笑うのか」みたいなところをスタート地点にしてしまうと、これはもう学問になってしまい、わたしごときの範疇ではない。そこでもう少しテーマを絞って「笑いの種類」について少し書いてみようと思う。
笑い(わらい)とは、楽しかったり、嬉しかったりなどを表現する感情表出行動の一つ。
全く自発的な場合もあるが、他人の行動に対して、「笑う」という表現を通して、自分の意思を伝えることにも使われる。(Wikipediaより)
笑いの種類
いつものように検索してみると、笑いを大きく4つに分類して解説している記事があった。今回はこの記事を参考にさせていただくとしよう。
この解説によれば、「笑い」は大きく以下の4種類に分類されるという。
- 愉快な笑い
- 社交の笑い
- 作り笑い
- 極限状態での笑い
順番に見ていこう。
1.愉快な笑い
感情が満たされたり、楽しいと感じているときに表れる笑顔。
わたしがパートナーとおいしいものを食べて「うまぁー!」なんていうときにはこの笑顔を湛えていると思われる。ユーチューブの動画を見てゲラゲラ笑ったりするのもこの「愉快な笑い」だ。ぶあっはははは!なんて腹を抱えて笑うとすっきりしますよね。わが家だとニャンコたちがたまにおかしなことをしでかして、心の底から笑わせてくれます。
2.社交の笑い
毎日の挨拶など、人間関係を円滑にするためのツールとしての笑い。習慣的な笑いともいわれる。ビジネスにせよ、プライベートにせよ、誰かと会うときに相手が自然な笑顔で居てくれるとホッとしますよね。わたしはフェイスパーツの構成上の問題から知的に微笑んでいるつもりがニヤニヤしているように見えがちなので、この社交の笑いをスマートに操れるようになりたいです安西先生。
3.作り笑い
愛想笑いに代表される「意識(意図)して作る笑い」のこと。本当はおかしくもなんともないのだが、笑っている様子を演じて相手を安心させたり愉快な気持にさせることで、その場の空気を守ったり、円滑にしたりする。
かつてわたしも飲み会の席で隣にいた部長に「そういやあ女房が整理しろ整理しろってうるせえんだけどよ、なんかそういうの今流行ってんの?めんどくせえ、俺は断捨離より銀シャリだって言ってやったよブェホハハハハハハwww」とか目を合わせた状態で言われてしまい、今にも噴火しそうな激しい殺意を封じ込めたのち社会人として即座に作り笑顔を発動させ「ぶあっははははははは部長なんですか何いってんすかwwwそれシャリしか合ってないじゃないすかwwwくだらねえええええwwwwwwつーかダンシャリってネタは何が乗ってるんですかwwww「ダン」だから男ですかねwwwえっ?ww部長もすかしてHOMO!?HOTTOMOTTO!?wwwいやー僕は海鮮なら男シャリより女体盛りのほうがいいなぁwwww悪いけど僕はお持ち帰りNGですよ部長ウェボハハハハハwww」みたいな爆発的良レスポンスで応えたところ、部長はなぜか真顔になっていて、「いや、”ん”も合ってるよ。ちがうのは、最初の一文字だけだよ……」なんて言ってそれきり静かになってしまったのだった。
わたしは無理してアクセルを踏みすぎたのだった。部長のテンションを超えてしまい、かき消してしまったのだ。気まずい雰囲気に耐えかねた他のメンバーが次々と席を離れ、ふたりきりになった部長とわたしは静かに酒を酌み交わした。ただ、無言ではなく「部長、お母さんっていうことばって、見ているとなぜだかジーンとするときありません?」「ああ、たまにあるな。歳を取ると特にな」なんて会話をしていた。部長とはその後飲み友達になり、何度も水道橋の飲み屋街で朝までホッピーを酌み交わした。
作り笑いは誠意なく作ってはいけない。ホスピタリティと感謝の気持ち、思いやりをもって、感情の底から自然と浮かび上がるように日ごろから訓練すべきだ。努力してクオリティを「社交の笑い」に近づけていこう。スマートに笑えるようになったら、不自然な作り笑いは不心得者を瞬殺する一撃必殺の決戦兵器として懐に隠して持っておこう。
4.極限状態での笑い
人間が極度の緊張、ストレス状態に陥ったときに、自己防衛の手段として身体が自動的に選択する笑い。
わたしの場合、鬱がもっともひどいときにも、笑いは出なかったと思う。けれど、以前「ほぼステージ4」のガンを告知されたときは、なんだか得体のしれない笑いがこみ上げてきたのを覚えている。それが極限での笑いに当てはまるのかはわからないけれども。「極限での笑い」は映画や漫画などでもたまに見かける描写だ。
笑う門には福来たる?
記事によれば、日常の笑いの80%は社交的な笑いだという。
結びはこのようになっている。
つまり!笑いで幸せになりたければ、②「社交の笑い」を心がけ、 ③「作り笑い」をたくさん行っていると、だんだん福が寄って来るということ。
それは、①「愉快な笑い」(10%程度)を心がけるより、毎日毎日何倍もすることになるからです。
「笑う門には福来る」ということだろうか。
笑っているだけでお金持ちになれることはないけれど、笑うことは身体に良い影響をもたらすようだし、いつもニコニコしている人って一緒にいて安心しますよね。(逆に笑顔が超こわいときもありますが……)同じように働いていても、いつもむっつりした表情の人と笑顔をたたえている人だったら、よりスマイリーな人のほうが愛されるような気がします。
わたしにとっての笑顔や笑いというのは、ホスピタリティの表出であり、他者に対する理解と共感と思いやりであり、自分に対する優しさと承認であり、気持を明るく前向きに保ってくれるものだ。そして、その根本は感謝だ。
ネットでの笑い
最後にネット上で使われる笑いの表現に光を当ててみたいと思う。ネットにはスラングがたくさんあり、知らないと意味がさっぱりわからない表現が日常使われている。わたしも結構知っているつもりだけれど、ちょくちょく「え、なにこれ?」というスラングに出くわして、そのたびググっている。
もっとも身近な表現のひとつとして「ワロス」というのがある。
これは「笑った」を意味するスラングで、「今朝無人販売所で買ったとうもろこしうますぎワロタwww」のように使う。
さらに、この「ワロタ」にはレベルがある。
「少し笑った」、「笑った」、「超笑った」のように、笑いのレベルによって「ワロス」の前に程度を表す言葉が付される。スラングにはこのように基本となる単語の前に程度を表す前置詞が置かれることが多い。ある意味わかりやすい。
ワロスの種類
以下は「ワロスの種類を解説したまとめ」という出自不明のまとめである。「下に行くほど強烈な笑いになる」とのこと。
ヨクトワロス:よく考えたらおもしろくないと理性が働きすぐ笑いを打ち消す
ゼプトワロス:これは面白いと理性の検証をパスするが既に勢いを失ってる
アトワロス:目を110%に見開いてモニタを見つめる
フェムトワロス:脳内にドーパミンが分泌される
ピコワロス:鼻息が少し漏れる音がする
ナノワロス:両方の口角が水平以上に上がる
マイクロワロス:歯が見える
ミリワロス:目じりが下がる
ワロス:口が開きハハと声が出る
キロワロス:隣の部屋に聞こえるくらいの大声で笑う
メガワロス:横隔膜の激しい上下動で逆に声が出なくなる
ギガワロス:前屈を続けるために腹筋が強く痙攣する。俗に言う「ハライテー」
テラワロス:顔面手足の末端が紅潮し呼吸が困難になる。次の日に激しい筋肉痛
エクサワロス:顔面麻痺目尻より白濁液重度神経系硬直副腎ホルモン低下
ゼッタワロス:全身の筋肉が緩み口・肛門から内容物を噴出する
ヨッタワロス:痺れが激しさを増し同時に激しい頭痛・幻覚に襲われトリップ
ハーポワロス:自我崩壊が始まり肉体面・精神面に深刻な後遺症が残る
グルーチョワロス:笑った瞬間雷に打たれたようになり廃人になる
オウフッwwwなんすかこれwwグルーチョワロスで拙者たまらず吹き出したでござるよwwwゼッタワロスwwwwwwグルーチョコポォwwwデュフフコポォwwwフォカヌポゥwwwwww拙者wwwwIQwwww
(訳:わたしはこの一覧を最後まで読んで「グルーチョワロス」で噴き出してしまった。声を上げて笑った。全身の筋肉がゆるみ、口・肛門から内容物を噴出した。非常に面白かった。でもIQが下がった気がした。)
「ワロス」はこれら程度を表す変化以外にも、「ワロリンヌ」とか「ワロシャイン」とか様々な変化を見せる。もちろん、ワロス以外の膨大なことばたちが同じような法則に基づいて日々、使われている。一部はネットから現実へと移行し、最近の学生さんなどを見ていると、通常の会話の中にネットのスラングが登場することも珍しくない。わたしもそれを見ると、「マジで口に出しててワロンチョスwww」とか思わないでもないけれど、もちろん口には出さない。表情もシリアスに保ったまま微動だにさせない。
本日のまとめ
というわけで、ところどころ「ふふっ……」とか笑いながら、「笑い」について書いてみました。今回は「笑い」を4分類で解説している記事を参考にさせていただきましたが、書き終えてみたら、違う分け方もあるように感じました。自虐としての笑いなんかはどこに入るのかな……いろいろ考えてゆくと楽しい。
しかし「笑い」って良いですね。笑い笑いと入力しているだけでも、なんだか気持が明るくなっていくような気がします。
作り笑いも笑いのうち。
あれこれ書いてきましたが、鬱に沈んだ経験からいうと、作り笑いでも無表情よりはずっと良いです。たった一人のときですら、笑顔になることにはメリットがあるのではないかと。ただし、一人笑いのときは周囲の目には十分ご注意を。
今、笑えていますか?
うまく笑えていないあなたには、一刻も早く笑顔が戻るよう心からお祈りしております。
おまけ
(昔描いたイラスト。photoshop)
昨日UPした過去のイラストに興味を持ってくださった方(月子さん tsukikosan )がいらっしゃったので、もう1枚だけペタリ。ありがとうございます。
はてブでコメントいただいた場合に、どうやってレスすればいいのかわからないわたしです。IT弱者……
今日のワシは気分がいい
(ぐっすり眠るちこたん)
絶望的に無意味な記事ばかり更新していたわたしだが、「わたしも人の役に立つ記事を書いてみたい!」と、ここ何回かちょっと頑張ってみた。そうしたら運良く良い流れに乗り、わたしからしたらびっくりするようなアクセスを集める記事をふたつも作ることができた。イイヤッホー!!ありがとうございます!!
アクセスがどーんと増えたとき、最初はGoogle Analyticsのリアルタイムサマリーで「30人のアクティブユーザーがサイトを訪問しています」なんていう表示を見て「うわああああなにこれ!!」なんて悲鳴とともにのけぞったりしていた。冷静さを取り戻してからは食い入るように画面に向かい、「今この瞬間、30人の人がこれを見ているだと……」なんてひとりごちながらすっかり固まってアナリティクスの画面をただただ呆然と見守ったりしていた。ちょっと前まで1日の訪問数が15とかだったのだから仕方ない。
しかし、このエキサイティングな状況にもわりとすぐに慣れてしまった。とはいえ、沢山の人が見てくれているという事実はすごく嬉しいことに変わりはなく、わたしはアクティブユーザーの数を常に画面の片隅に表示させて「うへへ……」なんて思いながら画像の調整をしたり、ウェブサイトのソースコードに向かったりしたのだった。
ユニークな自転車ライトの紹介、ミニマリズムに関する考察などを記事としてUPするのは、調査やら理解やら確認やらと手間はかかるものの、とても楽しかった。新しい知識が身につくし、書くことで新たな気付きも得られ、ものを書くということ自体の経験値も高めることができる。そのうえ多かれ少なかれレスポンスまで得られるのだから、ブログとはなんと素敵なものなんだろう!と嬉しくなってしまう。
気になっている自転車用ライトをいくつか特集してみた記事。反響はふつうだった。でも、アフィリブログみたいな構成で記事を書くのはとっても楽しかった。またやりたい。
鬱に落ち込まないよう、熱心に記事を更新し始めてから何日か経つけれども、その効果はテキメンで、わたしは今まさに絶好調である。気持ちは明るく張りがあって、フットワークは軽く、積極的にキッチンに立って夕食を作ったり、洗いものをしたり買い物に出かけたりと、非常に良い状態。お酒は相変わらず飲んでいるけれども、連続飲酒と睡眠を繰り返すようなことも起きていない。
この波に乗って社会復帰まで一気に駆け抜ける勢いをつけたいところ。とはいえ、この歳でブランクが1年あまりもある人間にすぐに働き口が見つかることもないだろうから、バイトでも内職でもなんでもして糊口をしのがなくてはいけない。
クラウドソーシングなどで募集しているライターの仕事なんてどうかなぁ。単価安くても数こなせばなんとかやっていけそうだし。でも、昔ライティングの仕事をしていたからといって、今のわたしの文章レベルでできるのだろうか……ううむ。ともかく何かせねば。デザインのお仕事をまた請けるのも良いけれども、そのためには音信不通となっている知人たちとの関係を修復しなくてはいけない。
イラストのお仕事もできたらしたいなぁ。いや、もちろん最近このブログに載せているようなマウスで描いたひどいものではなくちゃんとしたので……いや、あのマウス画でお仕事をくださる方、大歓迎です!楽だし!(笑)
(昔描いた風景の模写-photoshopでのspeed painting)
(昔描いた風景とかの絵-photoshop)
(昔描いた割れた地球-photoshop)
どれもなつかしい。そして今見るとどれもどこかしら残念。人物画もコミックタッチからリアルまでいろいろ描いているのだけれど、下手にUPすると身バレに繋がりそうなので自粛しておく。(病んでからは表アカウントは停止中なのです)
わたしはもともと絵を描くことが好きなのだ。
今は文章を書くことのほうが好きだけれども、こうやって過去のイラストに触れていると、絵を描きたい自分がむくむくと起き上がってくる。ブログを更新し続けるうち、眠っていた「やりたいこと」が次々に起きだしてくるのを感じるのは、すごく嬉しいことだ。
最近、一番よく作っているのはお料理。おいしいおいしいと食べてくれるパートナーのおかげで、料理をすることが楽しくてたまらない。もっと繊細な料理を上手に作れるようになりたい。薄味で上手にまとめる技術を身につけたい。ブログ、お料理ときて、次なる創作へと心が向かい始めたわたし。間違いなく、かつてのわたしだ。恐れずどんどんやっていこう。がんばれがんばれ。
今日のまとめ
このところ心の状態が良いということで、ブログの内容もすっかり普通、もしくはポジティブなものばかりになっている。けれども、本ブログのタイトルは「うつ病・アルコール依存症・日々のつぶやき」である。見に来てくださっている人たちの中にはタイトルに沿った内容を期待している方もいるだろう。
たまには関連の記事も書かないと。
タイトルを明るいものに変えてもいいのだけれど、いつ鬱に転げ落ちるか自分でもわからないので、なかなかそうもいかない。鬱に落ちたときの逃げ場がなくなってしまう。本当は病気と関連のない内容の記事は別ブログとかに分けるべきなのだろうな……まぁ、当面は気にせず好きなことをしようと思います。
表題の「今日のワシは気分が良い」は不朽の名作『北斗の拳』に登場するウィグル獄長さまの名ゼリフである。
それではまた。
最近よく見かける「ミニマリズム」について考えてみた(その2)
昨日、ミニマリズムについて書いた記事がたくさん読まれている。わーい!
わたしはミニマリストではないのだけれど、最近よく見かけるこの言葉、前々からなんだろうと気になっていたのだ。それでふと気が向いて、ちょっと調べてみたり考えたりしつつ、記事にしてみた。(昨日の記事だけども、一応リンクを貼っておきます)
ミニマリズムの雑誌をパラっと読んでみた。
この記事を書いたあとで、買い物がてら本屋さんに立ち寄った。ミニマリストとかミニマリズムとか銘打たれた本や雑誌がすぐに目に入ってきた。おお~、本当に流行しているんだなぁ……と軽く感動しながら何冊か手に取ってパラっと読んでみた。このジャンルの記事はシンプルで行間も広めに取ってあり、わたし好みのレイアウトであることが多い。
いくつか目を通してみて、どの本でも掲載されているイメージがとても良く似ているように感じた。モノの少ないシンプルな部屋に明るく光が差し込んでいて、ゼリーみたいなプルンプルンの唇を眩しく輝かせたきれいなお姉さん、あるいは今にも日向に溶け出しそうなオーガニック系爽やかイケメンが満足そうに微笑んでいるのだ。
ひとつくらい何もない畳の部屋に無精髭の小汚いおっさんが一升瓶1本とともにへそ出しルック(意図していない)で満足そうに頬杖をついて寝転んでいるイメージがあったっていいと思うんだけど、そういうのはなかった。イケメン以外の男子まで断捨離しやがって!!本当のミニマリストなら美も断捨離して真の幸せを見つけてみなさいよバカァ!とか思ったけれど、それじゃあ本売れないもんね。仕方ない。わたしも細身のハンサムに生まれたかった……26インチのジーンズとかどうやったら履けるの。
(美すらも断捨離した覚醒的ミニマリストの例)
ともかく、どの本、雑誌でも「ミニマリズムがもたらす素敵な暮らし」のイメージは決まりごとでもあるかのように同じようだった。そしてそのイメージは「無印良品のアイテムで作るシンプルライフ」だとか、「Seria(かわいい100円ショップ)だけで作るおしゃれな部屋づくり」みたいなインテリア系の本とそっくりだ。ふうむ。
わたしはほんの少し上っ面を舐めただけのニワカとも呼べないド素人だけれども、(最近流行っている)ミニマリズムということばは「自分の人生を幸せにするため」に「本当に必要なものを見極め」、そ「不必要なものを削ぎ落としていく」ことだと理解している。
けれども、雑誌の「シンプルに暮らす喜びを感じよう。断捨離で始めるミニマリスト入門」みたいなのを見てみると、
1.不要なモノ、しばらく使っていないモノを捨てましょう。
2.新しく買うものは本当に必要な物だけを厳選して購入しましょう。
3.すると、幸せの青い鳥が麦畑を壊滅させるほど発生し、幸福が訪れます。
4.ミニマリスト初心者のあなたにオススメのアイテムはこちら♪
こんな感じに記事が展開する。商業物だから読者に何らかのかたちで消費を促すのは仕方ないことなのだけれど、なんだかひっかかる。殿様の頭の上に足軽が乗っかっているような違和感を感じる。(誰にも理解を得られない例え)
別のミニマリズム
上に挙げたのとは別の定義を持つミニマリズムもあるようだ。
この記事でははっきりと「ミニマリズムとは “簡素なほど複雑で美しい” という考え方」と説明している。なんだか哲学的な感じ。
美術・建築・音楽などの分野で、形態や色彩を最小限度まで突き詰めようとした一連の態度を最小限主義、ミニマリズム(英: minimalism)という(ミニマリスムとも表記される)。1960年代のアメリカに登場し主流を占めた傾向、またその創作理論であり、最小限(minimal)主義(ism)から誕生し、必要最小限を目指す手法である。装飾的な要素を最小限に切り詰め、シンプルなフォルムを特徴としている。(Wikipedia)
なるほど、こっちのニュアンスなら近いのかもしれない……でもこれって、例えば建築物そのものの話であって、ライフスタイルやモノを持つ持たないの話とは違うような気もする。っていうか、違う。ここから派生したというのならわかるけれども。
誤用しているようには見えないので、インテリアコーディネートの世界ではこのような使い方をするのでしょう。
英語としてのミニマル(minimal)
英語としてのミニマルとは、どんな意味なのでしょう。わかりやすく説明してくださっている記事がありました。
minimal (形)「最小の」「最小限度の」「極小の」
数や割合が絶対的に「最小/極小」
「絶対的に」というのは、ある一定の範囲や基準などに依らずに、ということだそうです。ニュアンスがわかりやすくなるようにミニマム(minimum)と比較してみましょう。
minimum(形)「最小の」「最小限度の」「極小の」
数や割合がある範囲内において「最小/極小」
例えばA市の最低賃金が時間給900円だとします。これは最低賃金法という範囲に基づいて定められた金額です。
とある郊外の洋食レストラン。ここにふたりの労働者がいます。ゴーンさんと、わたしです。他のレストランから引きぬかれた優秀なゴーンさんの時給は900円、お皿をよく割るわたしの時給は32円。目もくらむような格差。
・ゴーンさん(時給900円)
最低賃金法に定められた範囲内において「最小」の時給なので、minimum wage(賃金)ということになります。
・わたし(時給32円)
この時給は、最低賃金法という範囲に依らず、オーナーが「こいつには32円くらいしか払わん」というふうに判断し定めた、絶対的な金額です。なので、minimal wageということになります。
※なお、ゴーンさんの時給900円が最低賃金法の範囲内における最低賃金であり、オーナーが法律に関係なく絶対的な最低時給と考えている場合、ゴーンさんの時給はminimalかつminimumということになるそうです。うう、難しい……。
ミニマルのニュアンス、うまく伝わりましたでしょうか。
時給32円とかわたし超かわいそうですが、さておきミニマルというのは絶対的な最小のことを表すとわかりました。そうすると、ミニマリズムは「極小であること」に範囲を持たず、それぞれが判断する中での「(絶対的)最小限主義」であるということになるんでしょうか。
英語では「最低賃金」には「minimum wage」という訳が当てられるそうです。
わたしの現在のお財布の中身はminimalであることもこの度わかりました。やだー!
結局ミニマリズムって……もやっとする理由
なんだかいろいろなミニマリズムがあるんですね。
今ちまたで流行りまくっているミニマリズムはこの中のどれかなのでしょうか。それとも全部がごった煮になったハイブリッドタイプの新型ミニマリズムなのでしょうか。それぞれ目的が違うのにハイブリッドって……どうなっちゃうの。
あちこちで盛んに使われているミニマリズムということばの「定義のあやふやな感じ」。感じている人も多いんではないでしょうか。わたしがそのあやふやさを目にするたびにあれっ?と思うのは、この不思議な、定義の定まらない多様性のようなものが原因なのかもしれません。
今日のまとめ
どうやらミニマリズムというのは、何か揺るぎない定義があるわけではないみたい。だから、いろんなミニマリズムがあって、いろんなミニマリストがいるのは無理からぬこと。このような状況下で「ミニマリズムとはこうでなければならない!」「こうあるべきだ」なんて言って他を否定しても仕方ない。他人に嫌な思いをさせたり、迷惑をかけない限り、それぞれが自分のミニマリズムを楽しめばいいじゃない。
わたしが気に入ったのは、最初に出会ったライアン・ニコデマスさんの「ミニマリズムは幸福を求めるツール」という考えかた。でも、彼が苦難の末にたどり着いた境地は、何気なく見た雑誌のミニマリズム特集から入ったような人ではなかなか実践できないだろう。
だから、どのミニマリズムにおいても出てくる「モノを捨てる」という行動がわかりやすくクローズアップされ、「モノを買わない」ことが節約術に繋がり、「モノが少ない」ことから整理整頓術にスポットが当たって、マスコミやらもそれにうまいこと乗っかってやんややんやとやっているうち、気がついたら結局モノに踊らされてました!なんていうことが起きてしまうのだろう。
わたしはこれからも麗しき物欲と手に手を取って物欲の社交ダンスを踊り続けたい。今後は100円ショップや世界堂で使うあてのない雑貨や小物を衝動買いしたりしながら、年齢相応に「良いものを長く大切に使う」ことも実践していくつもりだ。もちろん、しっかり楽しみながら。
とりあえず、このとっ散らかった机の上をなんとかしなくちゃね。
トピック「もうモノは必要ない」について
最近よく見かける「ミニマリズム」について考えてみた
最近、ミニマリズムとかミニマリストとかいう言葉を頻繁に目にするようになった。ミニマリズムは日本語で表記すると「最小限主義」になるそうだ。あちこちのブログなんかを読んでいると、一時期非常~によく耳にした「断捨離」との関連性も高いようだ。シンプルライフ、なんて言葉も周辺でちらほら目にする。この、ジューシーにしたたる流行語感……果たしてこの言葉、数年後には残っているんだろうか。
最小限主義。字面だけ見ると、本当に必要なもの以外は持たない暮らしや人生を是とする主義だろうか。清貧、みたいなのもこのジャンルのイメージなのかな。
わたしもシンプルな暮らしには一定の憧れがある。けれども、あれやこれやと買い求めるうち、部屋は結構なモノで溢れている。パッと部屋を見回しても、パソコンにノートパソコン、プリンタはインクジェット複合機にテストプリント用のモノクロレーザー、デュアルディスプレイにサラウンドスピーカー、ペンタブレット、革靴3足にジーンズ6本、サングラス、椅子ふたつ、大量の書籍と漫画、3本ローラー……とても挙げきれないくらいだ。そして、これらのうち、毎日触れるものはごく一部だ。
今ひとつイメージが湧かないので調べていたところ、上記の記事(TEDのログ)に巡りあった。この記事を読んで「なるほどー!」と腑に落ちた。
記事内ではライアンさんが友人に促されて「一度持ち物のすべてを段ボールにしまい、必要な物だけを取り出して使う」という試みをしたとある。3週間後、持ち物の80%は触れることさえもなかったのだそうだ。とはいえ、特に驚きはない。わたしも部屋にあるモノのうち、「3週間触れることのないモノ」の比率は80%以上あると思う。もっとあるかもしれない。
ライアンさんはミニマリズムについて、こう結んでいる。
過剰に溢れかえる所持品を整理することで、人生のゴタゴタまでも整理出来る。そして要らないものを整理した後に残った必要なもの、例えば健康、人間関係、成長、貢献、コミュニティにフォーカスすることが出来るのではないでしょうか?
ふうむ。
わたしが今、部屋にあるおびただしいモノを整理したら、人生は果たして豊かになるんだろうか。いまひとつ想像ができない。痩せてサイズが合わなくなったスーツや、もう着ないけど、熱が出たときに着替え用に使うかも……なんていう理由で取ってある衣服、いつか読むかもと本棚に入っている書籍など、「今不要なもの」はいくらもある。でも、いつか使うかも……と思うとなかなか捨てられない。
今のところ、わたしの考えは「収納スペースもあるんだし、無理に捨てなくてもいいんじゃない?」といったところだ。断捨離断捨離と呪文のように唱えながら捨てまくったとしても、どうせまた同じものを買うに決まっている。ならば、持っていたほうがいいかな、と。ミニマリズムには完全に背を向けた格好だ。
モノは少ない方がいい。これはわかる。けれども、わたしにはモノを最低限にするための強い動機づけがない。本当にモノの多さが、人生を豊かにすることを妨げているのかしら。わからない。想像がつかない。
ライアンさんは、一度成功してカネやモノがあふれた暮らしに埋没して苦しみ、その中で幸福について見直す機会を得、結果、ミニマリストという生き方を発掘した。掘って、取り出して、叩いて、磨き上げるような過程を経て、彼はミニマリズムへとたどり着いた。それは彼にとっての解脱といっていいのだろうと思う。
しかし、わたしのようにぼんやりと生きてきた人間が本だのブログだのを読んで、いきなり断捨離だシンプルライフだミニマリズムだと熱病に冒されたようにお部屋や持ちモノをすっきりさせたとて、それは単にいつもと違うことをして気持ちいいだけのことなのではないのだろうか。「豊かな人生を送ること」にフォーカスすることは素晴らしいことだけれど、その前に自分にとっての「豊かな人生」とはどんなものか、よくよく考えてみる必要がある。
ミニマリズムは手段でしかない。
けれどもこうして流行になってくると、豊かな人生を送るためにモノを整理する、というのが、モノを整理すると豊かな人生を送れる、というふうに誤変換されてしまうことも多くなる。最悪の場合、ミニマリズムを曲解した男が全てを断捨離して全裸で歌舞伎町に降臨し、機動隊に包囲される中「ミニマラーイジーング!断捨離モード!」とか絶叫するけどまったく変身することなくSATに射殺(断捨離)されるとか、そういう悲劇も起きてしまうだろう。(起きるわけがない)
(誤った知識が拡散した例)
脱線した……手段と目的を履き違えても、その中から別なかたちの喜びや幸せ、気づきなんかを見出す人もあるだろうし、別にいいのかな……と。案外考えなしにモノを捨てまくったら本当に人生が豊かになったりして。何事もやってみなくてはわからないんだし。やっぱりわたしも試してみようかな……(笑)
さて、ライアンさんが書かれた『minimalism 〜30歳からはじめるミニマル・ライフ』には、こうある。
ミニマリズムとは、有意義な生活や人生を送るためのツールだ。
誰もが探し求めている幸福(と断言しても問題ないですよね)を手に入れるためのツールなのだ。
幸せに暮らしたくないと思っている人はいないはずだけれど、ミニマリズムはその手助けになる。
ミニマリズムには特定のルールなんて存在しない。
ミニマリズムとは、単純に、生活の中から不必要なものをそぎ落として、本当に大切なものだけにフォーカスすることだ。
今日のまとめ
おそらく概念としてはずっと昔から存在するものなのでしょう。それが今、新しい言葉をまとって現れた。何年かしたら、違う言葉に置き換わっているかもしれない。最近ライフハックとかあまり聞かなくなったみたいに。でも、この概念はずっとずっと残っていくだろう。だって、みんな幸せになりたいもの。
とっても興味があります。
でもわたしはとりあえずライアンさんに倣って出世しまくって年収1000万オーバーになり、モノにあふれるところから始めたいです。誰か……エンプロイミー。このままだと、わたしが世の中から断捨離されそうです。チェーンジ!ミニマラーイジーング!(射殺)
ID:4vhr2w
トピック「もうモノは必要ない」について