鬱の波打ち際で思うこと
夜空がとても綺麗。
今日は朝から体調が芳しくなく、日中はクーラーを入れたまま安静にしていた。吐き気がひどく、身体と心が重い。そして何より嫌なのが、鬱が近づいて来ていると感じることだ。いま、何かの拍子にストンと鬱に落ちるような危うい場所に自分がいるのを感じる。このところ前向きな時間が長かったこともあり、もし鬱に転じたら反動は大きそうだ。
今のところはなんとか踏みとどまっている。でも、こんなことを書いているわけだから、すでに片脚を突っ込んでいるのかもしれない。こわい。
ともかく、こういうときは鬱と直に向き合わないのが一番だ。鬱とした気分を傍らにのけて、何か別のことに集中する。それを続けているうち、鬱はいつの間にか遠のく。よほど強い波でない限りは。
最近はうまくやれていたし、今回もおそらく大丈夫だろう。今の望ましくない精神状態も、なんとかブログのネタにしてやろうと考える自分がいるわけでもあるし、なにより鬱に落ちるのは嫌だ。
わたしの場合、鬱に転じるギリギリのところにいるとき、自意識が分厚いゼリーのような層に包まれているのを感じる。ゼリー状の層は透明度が高く、周りは通常と変わらず良く見える。けれど、常温の生ぬるいかたまりのようなものに包まれているから、気だるくて動きが鈍る。
自覚するほど包み込んでいるものの粘度が高まり、動けなくなってゆく。すっかり動けなくなるころには透明度も低くなり、視界が失われる。固く閉じ込められるうち体育座りのような姿勢になり、何も見えないから目を閉じる。やがて意識も無に近づく。外界とのリンクが切断され、食欲も物欲もないマナーモードみたいな自分が現れる。鬱の間は彼が最低限のことをしてくれる。
鬱はこうして完成する。
いつ浮きあがれるかはわからない。確実な方法もない。鬱に沈み込んだときは、自意識をすっかり飲み込んだぬかるみの中からどうにかして自分を見つけ出し、自分のかたちを懸命に思い出しながら整えていかなくてはならない。うまくかたちができれば、鬱から出られる。そうでなければ、ずっとそのままだ。
こんなとき、家族がいることは大きな救いだ。ネコたちやパートナーがわたしに外部的な刺激をもたらしてくれるのだ。パートナーは気遣って、わたしが寝ていても起こさずにそっと出かけたりしてくれるけれど、ネコたちはそうではない。
おとうちゃん、ごはんなくなったよ!うんちでたよ!お水替えて!おしりトントンして!
何かにつけてやってきては報告したり、要求したり、じゃれついてきたりと遠慮がない。しかしこれが鬱から脱出する助けになるのだ。ネコとヒトは共通の言葉こそ持たないけれど、本能に根ざした声は心に直接響くものだ。一緒に暮らしていると自然とわかるようになる。きっと、彼らにもことばはあるのだろう。
パートナーは適切なタイミングで声をかけてくれる。大切な人の声はまっすぐに心に届く。たとえば「大丈夫?」と問いかけられれば、その瞬間に現状の自分を把握しようと心が働き、ぬかるみの中から自分を見出そうとする。「うん、大丈夫、ありがとう」と答えるために必死で自分を確認するのだ。
この小さな火花はたいていの場合その場で消えてしまうけれど、たまに大きく燃え広がり、これが鬱から脱出する手がかりになる。ひとりなら餓死するまで動かない可能性があるとしても、家族がいることで動くことができるのだ。
わたしはとても恵まれている。
思いきり鬱と向き合っているようだけれど、わたしとしては記事を通して外の世界、つまり今この文章を読んでくれているあなたと向き合っているつもりだ。スマートウォッチだペンタブレットだと書いているときと同じく、鬱という誰にも等しく内在するものをレビューしているにすぎない。
鬱というものはかたちを持たない。どこにあるのかもわからない。けれども確実に自分の内にあり、大きな作用をもたらす。なってみてわかったけれども、鬱はどこからかやってくるものでも、誰かから感染するものでもない。最初から自分の中にあるものだ。自分の一部なのだ。
明日も記事を書きます。
がんばれわたし。
というか、久しぶりにブログタイトルに合った内容になりました(笑)