真昼のコウモリ
また公園。
ふと見上げたらコウモリが飛んでいた。こんな昼どきに飛んでいるコウモリもいるものなのだな。夜行性と思っていたけれども。
間抜けなのか、変わり者なのか、あるいは私のように何かを病んでいるのか。なんにせよ、こんな晴天下でひらひらと飛ぶコウモリは私に不思議な違和感を与え、心を動かしてくれるものだった。
心が動くということは人間が生きる上でとても大切なことだ。負であれ正であれ、人は己の心の動きに対して結局は全力で向き合うものだ。 でも、それがいいのだ。
私の場合、鬱になると心が動かなくなる。まるで清涼感のない、生き物もいない、水はすっかり透明で澄み渡り、けれども永遠に陽の当たることのない沼。そこにある波ひとつ立つことのない鏡のような水面にあるものは、穏やかさではなく、無だ。
私はその水面の数ミリ下にじっと沈んでいる。無の直下に座り込んでいる。
少しだけ手を伸ばせば他者から見える。立ち上がれば水面から出られる。他者との出会い。それはとてもとても重要なことだ。ただ立ち上がるだけ、あるいは手を少しあげるだけ。でも、それができない。きっと、心を病んだ人たちは皆そうなのだろう。何をすれば良いかなんて分かっているのだ。
足元でアリが這いまわっている。パートナーは彼らのことを「ありんぼう」と呼び、私はこれをひどく気に入っている。(ただし室内で発見した場合は必ず殺害する)
ありんぼう。
彼らに思考はあるのだろうか。もし私も彼らのように無心に行動することができたら、私はきっと元の暮らしを取り戻せることだろう。
とてもシンプルで、だからこそ困難で簡単なことなのだけれど。
私は心を病む人間など弱い存在であり、社会不適合者なのだと考えていた。理解も許容もできなかった。
でもこうして今、私はその理解できぬ場所に佇んでいる。せめてもの抵抗として、私はここに座り、言葉を重ねている。