走れ走れ、子どもたち
今朝は気持ちが重く、この時間になってやっと起き上がることができた。情けない。何かあと少しで、というところに手が届いている実感があるのに。
既に起きていたパートナーにことわりを入れ、また公園に来た。せいぜい歩いて数分のところなのだが、それでも室内と外とは違う世界だ。
私が毎日努めて外に出ているのは、自室内ではこの重く淀んだ気持ちを変えられない、まだそれだけの力が己の中に蓄積されていないという感覚があることがひとつ。
もうひとつは、外に出れば平然と生活する人びとを見ることができるからである。もちろん皆それぞれに苦悩や葛藤を抱えているのだとは思うが、私からすればそこに人びとの普通の暮らしがあり、自分がその端っこにでも存在している現実を感じることは、私のかたちをギリギリのところで保ってくれる力になっているように思う。
普通に生きたい。
パートナーと明るい緑の下、何気なく話しながら歩いたり、しゃがみこんで道端の野草を観察したり、何か大きなものを購入して2人で協力して持ち帰ったり……そういう人びとを見かけるたび、私はどうしてこのようになってしまったのかと考える。
辛くはない。
でも少し悲しい。情けない。
過去の後悔は仕方ないものと一旦飲み込み、今から始めれば良いと思う前向きな自分と、どうしても動けない泥のような己に嫌悪する自分とが並んで座っている。ふたりともそれぞれ考えている。
先ほど、道を尋ねられた。幸いわかる場所だったので、きちんと答えることができた。なんだか少しホッとした。
そういえば一時期、ストレスか何かで声が出せなくなったことがあった。あの頃よりは今のほうがはるかに身体の状態は良い。なんだ、いいこともあるじゃないか。
子どもたちが元気にボールを蹴り、駆け回っている。やかましいが、明るく活気があり、懐かしく楽しい気持ちになる。この若く柔らかな喧騒から力を分けてもらっているんだ。
青いシャツの子が壁になって私にボールが当たらないように守ってくれている。こんな子供でもこのような気遣いと、行動ができる。
平日の公園、この時間。こんな状況の中、ベンチに座る働き盛りと思われる年齢の(たぶん)暗い表情をした男。こう書くとなんだか通報されかねない不審者のようだが、手元の文庫本が私の存在を通報には及ばない範囲に止めてくれている。
そうそう、おじさん実はサッカー、上手いんだぞ。誘ってくれないかなぁ(笑)
やはり外に出ることは大切だ。