鬱(うつ)病・アルコール依存症・日々のつぶやき

2014年、うつ病・アルコール依存症デビュー。うつの波にぐっと耐えつつ、前向きな日々を送っています。読んで楽しい気持ちになってもらえたらうれしいです。

夜の公園おじさん

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また夜になった。

昼から何箇所かの公園を巡っているうち、今の場所にきた。今日は三島由紀夫の「仮面の告白」を読み過ごしているのだけど、彼の表現を丁寧に追いながら読もうとすると、大変に時間がかかる。だって語彙も知識も行間に込められたものも、何もかもが凄いんだもの。

 

私には大したレベルではないが速読のスキルがある。平易な文章ならかなりの早さで理解し、読み切ることができる。でも、己の理解や知識を超える文章の前では速読は無力だ。

 

つまり一般的なレベルでの速読というものは、読み手の知性や知識に収まる範囲でのみ、成り立つものなのだろう。

 

見たものをすべて瞬時に記憶できる特殊能力者だって、知らぬ語彙や表現はただの画像としてはただちに記憶できたとしても、理解し意図を汲むには一般人と同様の時間を要するはずだ。

 

 

そういえば出掛けるにあたり、私が三島の本を持っていくと告げると、パートナーは「もっと楽しい本読めば?私は持ってないけど(笑)」なんて言っていた。ちなみにこの本も彼女からの借り物だ。

 

 

毎日毎日公園に佇んでいる。今の私はまるで公園の設備のひとつになったかのようだ。しかし、本当に僅かなからも、私はこの深いぬかるみの中で手足を動かし、少しずつ前、あるいは上に進んでいる。

 

先ほど気づいたことがある。

私は自らを殺したいとは微塵も思わないが、何らかのやむを得ない形で死が訪れることには期待している面がある。

 

今すぐ消えてなくなりたい。

そういった感情は外的な要因で与えられる自己の喪失、肉体の死、例えば病気や事故などによってこの世界から離脱することに対する甘やかな期待である。しかしてそれは、命を全うしたいという感情とまったく矛盾しない。

 

とは言え、現実に医師か何かに明日死にますよ、と言われれば必死で抗うだろうし、苦しむだろうし、泣きもするだろう。

 

消えたいくせに、なんで泣くの?

 

この問いの中にひとつの答えがある。今死ぬことには悔いがあるからだ。こんな状態で死んでたまるか。誰にも、何も残すことなく、いつの間にか消えるなど悲しすぎる。誰に対しても申し訳が立たない。

 

もう少し。

あと一かきできればこの泥濘から出られるはずだ。呼吸が止まって死が訪れるまで、諦めず足掻こう。

 

負けるもんか。

だって、悔しいんだもの。