鬱(うつ)病・アルコール依存症・日々のつぶやき

2014年、うつ病・アルコール依存症デビュー。うつの波にぐっと耐えつつ、前向きな日々を送っています。読んで楽しい気持ちになってもらえたらうれしいです。

アルコール依存性と向き合う

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もはや鬱、アルコール依存性と向き合うブログではなく、単なるとうもろこしブログと化していますが、わたしは案外元気です。
 
さて、昨夜は2箇所で買い求めたとうもろこしを焼きと茹でで食べ比べた。それぞれ出自のことなるとうもろこしは、どちらも甲乙つけがたく、その甘み、香り、濃厚さと、あらゆる要素において互角だった。甘く柔らかでプリプリ。それでいて香り高く、全体として柔らかかつ豊かで幸福な食体験を提供してくれる。この甘やかな体験は、間違いなく墓場まで持っていけるものだ。
 
わたしたちはこの至高の存在を夢中で食べた。パートナーはなんとまるまる2本分完食。わたしは1.5本を恍惚のうちに平らげた。愛猫たちもたくさん食べ、このとうもろこしの美味しさは猫にまで通ずるのかとますます幸せに感じた。
 
やあ、美味しかった。
最高。
 
でも、ディナーがとうもろこしと前日の残りのサラダでは腹持ちが良くなかった。パートナーは何時間かしてから「お腹すいた!」と言って、カップ麺を食べるか否かを長考したあげく、パンを食べていた。わたしは発泡酒をチビチビ。
 
このところ鬱の症状は今出ていないけれど、アルコール依存のほうは相変わらずで、わたしは「そろそろ断酒できそうだな……」なんて思いつつ、結局は断酒することなくお酒を飲んでいる。
 
アルコール依存性は不治の病と言われる。一度なったら永遠にやめるしかない。でも、わたしはまだ、お酒とうまく付き合えそうな気がしていて、そういう考えの周辺にある別の考えを整理してから改めてアルコール依存性サイトのチェック表なんかを見ると、ああやっぱりわたしは依存性なんだろうな……なんて思うのである。
 
世の中にあるアルコール依存性に関するデータは、依存性になった本人と、それらに関わった医療関係者や研究者たちが積み重ねてきたデータの上に成り立った、いわば統計である。比してわたしの考えは所詮、わたしひとりのもので、そこにはなんの積み重ねも客観的合理性もない。
 
であれば、前者を信じるのがまともな人間の行動だろう。アルコール依存性の人間が飲み続けた場合の末路は酷いものだ。わたしの叔父もアルコール依存性になり、身体を壊し、最後には親戚や兄妹のこともわからなくなってしまった。今は完全な廃人となって施設にいる。
 
わたしはこの叔父に性格がよく似ているのだ。今こういう状況にあって、わたしはいよいよ叔父がかつて走ったのと同じレールの上を最終駅に向かって勢いよく進んでいるようにも感じる。それはとても恐ろしい。
 
今は頭が冷えている。だからいろいろなことを考える。もうダメだ、まだ大丈夫。ああするべき、でもこれでいいんじゃないか……このまま死んでたまるか、いや、このままなんとなく消えてしまってもいいんじゃないの?
 
パートナーや愛猫たち、辛抱強く支えてくれる家族。彼らの支えや愛情、存在に応えられる自分になりたい。さらにはもっと強くなり、彼らを守り助ける存在になりたい。
 
そんな思いと、それと相反する思いが、日々わたしの中でしのぎを削っている。
 
……久しぶりに深刻な感じだけれど、気持ちが暗転して鬱に転じたからではなく、鬱症状が弱い今こそ改めてアルコールと向き合わなければ、と思った次第です。
 
世の中の多くの人たちは大切なものを日々努力して積み上げているんだ。わたしもそうしたい。それだけなんだ。

断酒1日目

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今朝の凄まじい嵐から一転して鮮やかな晴天。

 

私も昨日のめちゃくちゃな状態からなんとか復帰して、今朝はパートナーと朝食を取ることができた。

 

そして、断酒することを決めた。決めたものの、今でも心は飲酒する理由を探している。

 

暇だからいけないのだとか、生きがいがないからとか、社会とのつながりがないからだとか、いろいろ。要はこれらの要因が取り除くことができれば飲んでもいい、大丈夫だという理由作りだ。

 

断酒会のこともパートナーに話した。行ってみようかと検討していると。しかし話す中で唐突に目の前にいるこの人の前で証明し続ければいいのだという考えに行き着いた。

 

パートナーは「そこまで深刻なの?」と第一の感想を述べた。わからないけど深刻なのかもしれない、と私は返答した。

 

いや、しかしこれを、病と認識している以上、仲間や支援者がいた方がいいようにも思う。それとも己の意志の問題だろうか。もっと人を頼り、どのようなものであれ社会との接点を増やした方がいいようにも感じる。

 

ともかく今日の更新から、断酒の日数を書き込むことになる。私が読んでいる断酒されている方のBlogは3年以上を数える。

 

私もあのようになりたい。

負けたくない

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アルコール依存だかなんだか知らんが、私はこんな意味不明なドロドロしたものに負けたくない。

 

今朝、目覚めたらパートナーが 壁ぎわに座って覚醒しようと闘っていた。傍目には心を失った人間、いや、その様子はもはや人形のようであり、しかし声を掛ければ返答はある。ある程度の覚醒はしており、おそらく内なる自分とせめぎあっているのだ。私と同じだ。

 

しかし私は自分に対してそうなのと同じで、どのように手助けして良いのかわからない。大切な人なのに、決して失ってはならぬ人なのに。

 

私と彼女とが積み上げた年月はまだ僅かだ。しかしその間、私は初めて、己以外の人間が生きるために必死で足掻く姿を目の当たりにした。ただ興味のある仕事に就き、普通に生きたいだけなのだ。でもそれを病が阻む。

 

程なく、私も依存性や鬱と向き合うことになった。辛いことだったが、そのことによって彼女の苦しみはより一層、私に強く伝達された。

 

同時に、彼女と比して、己の甘さや対峙しているものの薄っぺらさも感じた。ただ私の方が少しだけ器用にいきてきただけだ。

 

なんにせよ、私は私の足で立ち上がり、家族を支えねばならない。彼女の直近の不安を取り除き、ゆっくりとでも良いから彼女に寄り添い、何かしらの力になりたい。言葉を交わし、理解し、心に、身体に寄り添い、どちらかが死ぬまで一緒に生きてゆきたい。私はあの人のことを愛しているんだ。絶対に離れたくない 人だ。

 

今の自分の状態から鑑みて、たとい大切な人のためであろうと他者のために何かしようなどおこがましく感じる。しかし、そういった感情を否定する意味はない。

 

私は駄目な人間だ。

しかし、守りたいものがある。家族だ。家族のために立ち上がれるならば、それは素晴らしいことじゃないか。一人ではないということがどれだけの力を持っているか、今の私には計り知れない。

 

所詮、私なんていなくたって世の中は平然と回ってゆくのだ。時代に足跡や名前をを残す必要だってない。

 

ただ、今、己よりも大切な人がいて、その人を守りたいと思う私がいる。

 

いつか彼女が安寧の中で微笑む顔が見たい。私は弱い人間だけれども、そのためにこの世界に強くアクセスしなければ。何を犠牲にしたって構わない。

 

私は、彼女のことを愛している。あの人は私の身体と心の一部であり、私と共に豊かな果実を包むひとつがいの殻である。

 

一人ではない。

私は恵まれているんだ。

 

勇気を出して、手を伸ばせ。

断酒を始めますよ

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でも「今日から」ではなく「明日から」だ。(笑)

 

これでしばらく酒とはおさらばと、500の缶を4本買い、部屋で彼女と2人で飲んだ。これが今生最期の酒、というわけではないのだろうが、少なくとも当面の間酒を断つことにしようと思う。

 

今こうして書き連ねた言葉だけ見ても己の決心の弱さや覚悟の足りなさが言葉の裏に見え隠れしている。でも、これが正直な気持ちだ。

 

無理に強い言葉を吐いても意味はない。それで強くなれるわけではないのだから。ただ淡々と日々積み重ねてゆくのみだ。考えてみれば話は簡単だ。断酒とは酒を口にしなければ良いだけなのだから。

 

 

今日、ある方のBlog(http://kokoroda.hatenablog.com)を拝見した。私より一つ年下の男性で、人生に絶望しているようだった。その文面は一つ一つの言葉が心に突き刺さるようなもので、深く共感し、読んでいて涙が出た。彼の発する文言の一つ一つがまるで自分の言葉のようにすら感じられた。

 

私はまだ彼ほどには人生に絶望してはいない。けれど彼の抱く絶望的な何かや無力感、虚ろな現在への静かな失望はある程度理解できる。(彼が本当に文面通りの心情でいるのかは計り知れないけれども)

 

それはあたかも頭上から決して動くことのない重苦しい、けれど雨は決して降らせぬ雨雲のような、体にまとわりついて離れない濡れた綿のような体と心を縛る何ものかだ。己の意思では剥がせないものだ。

 

今の私にとって、酒がそれなのか、私自身がそれなのか、或いは別の何かなのか、それがわからない。だが何かしら粘っこいぬかるみのようなものが私の足元にいつの間にか深く堆積していて、それが今の私を縛っている。

 

そして、私は今そのぬかるみから足を引き抜いて先に進みたいと思うようになった。ずっとぬかるみの中で座り込んでいた。しかし、やっとの思いでここまで来た。

 

この重苦しく堆積したぬかるみより足を引き抜いて一歩進む。たった一歩だけで良い。それが今の私にできる唯一の挑戦だ。私にはまだできること、やりたいことがある。

 

支えてくれる人がいる。愛する人がいる。守りたいものがある。できることもある。そして、まだ私は生きている。

 

私は明日、たくさんの人にこれまでにかけた迷惑を詫び、助けてと叫びたい。そして、助けてもらえたならば人生をかけてその恩を返したい。

 

このまま朽ち果ててゆくのは嫌だ。これまで歩んできた人生を信じ、勇気を持って一歩を踏み出したい。

 

 

私は、この病に決して負けない。大切な人が幸せに微笑む姿をこの目で見たい。

【アルコール依存症】お酒を断つということ

アルコール依存症は一生治ることのない病なのだそうだ。

 

ひと度アルコール依存症になると酔い潰れて眠るまで酒を飲み、目が覚めたら再び酒を飲む。これを延々と繰り返すようになる。生きる気力、働く気力がなくなり、風呂にも入らず、服も着替えない。部屋は乱れ、廃墟のようになる。食事も最低限しか食べない。

 

酒を飲み、絶望して眠るだけの暮らし。まともだった生活が少しずつ破壊されていく。1人だけならまだ良い。しかしこの静かな破滅はやがて身内にも及ぶ。周囲を巻き込み、破滅させるのがアルコール依存症の恐ろしいところなのだ。(と色々なサイトに書いてある)

 

私がそのようなひどい状態(連続飲酒と睡眠)になったことは昨年に2度ほどあった。でも、あるとき我に返って何とか修正することができた。今でもお酒は飲んでいるが、酒量はコントロールできている。酔い潰れて眠るようなことはない。

 

昨年暮れには50日程度の断酒をした。コーヒーやお茶で過ごす毎日は穏やかで落ち着いたものだったし、まったく苦痛ではなかった。しかしクリスマスの晩にパートナーと乾杯したのをきっかけに再び飲むようになってしまった。

 

今年の3月頃にも20日間の断酒をした。これは血液検査で尿酸値が異常に高いと医師から指摘されたことが理由だ。このときの血液検査はほぼ丸一週間食事を摂ることができず、栄養失調と脱水症状で倒れたときの数値だった。実際、かなりの項目で異常な数値を示していた。

 

痛風の疑いや痛風予備軍ではなく、症状が出ていないだけですでに痛風であると考えるよう言われた。実際に痛風の薬も処方された。幸いにしてその後も痛風の症状は出ていないが、骨に直接釘を打たれるような痛みだとか地獄の苦しみだとか聞くと本当に恐ろしいと思う。なにしろ私の身体はすでにその状態にあるのだから。

 

 

こうして書き綴っていると「自分はいつでも酒をやめられるのだ」と心のどこかで考えていることがわかる。そして「今後も少しなら飲んでもいいだろう」とも考えている。私はもともとお酒が大好きなのだ。

 

断酒、再び始めてみようと思う。

 

……と書いた瞬間頭をよぎったのは「今から一杯飲んで、それをもって断酒の始まりとしよう」だ。(笑)

 

アルコールだけでなく、あらゆる依存症を断つための一番の障壁はこういった心の働きにあるのだろう。依存心は言い訳を見つけるのがとても上手く、甘い言葉で囁きかけてくるのだ。他でもない、自分の内側から。

アルコール依存症とうつ病と

私はアルコール依存症だ。

昔はただの酒好きだったが、あるきっかけからアルコールの効果、つまり「酔う」ということに依存するようになった。その時から酒は嗜むものでも楽しむものでもなくなってしまった。

 

症状が進むにつれ食事を摂る回数は減り、1度に摂取する量も茶碗に半分ほど。それを1日に1度。バランスの悪い食事のため体は終始不調だ。更に精神状態の悪いとき、つまり鬱の症状が出ているときなどはまったく食事を摂ることができず、数日で体重が5~6キロ落ちてしまう。

 

そうなると大変で、自室から台所まで少し歩くだけでも苦しくなりその場で動けなくなってしまう。食事も摂れない、水を飲んでも戻してしまう。体が栄養の摂取を拒絶するのだ。やがてひどい脱水症状と栄養失調で視界も定まらなくなり、真っ直ぐ歩くこともできなくなる。呼吸が苦しくその場で立っていることすらも困難だ。

 

私の安静時の心拍数は本来60程度だが、こうした状態のときは120~140を超えることもある。

 

幸い階下にクリニックがあるため、ひどい時には点滴や薬の処方を受けている。エレベーターで下に降りるだけで診察を受けられることはとてもとても有難いことだ。

 

最近は少し症状が良くなり、ある程度の食事を摂ることもでき、体重も戻ってきた。あとは規則正しい暮らし(こんな時間にブログを始めたりしておいてなんだが)、アルコールと上手に付き合うこと、大切なパートナーと猫2匹の生活を守ることができるだけの仕事をきちんとこなしていかなくてはならない。

 

私は昔から他人に助けを乞うことが苦手だ。「助けて」と言えない。どうしても言えない。他人から助けを乞われたときは全力で助けてきた。しかし、自らの窮地に誰かに助けを乞うことができない。なぜだかは分からない。本当は「助けて」と言いたいのに。誰にでもいいから。

 

44年生きてきた。

様々な実績も重ね、人間関係も広げてきた。専門の資格も、能力も、経験もある。

 

あとは一歩、動くだけだ。

その一歩をこの1年間、どうしても踏み出せずに来た。このブログを始めたのは、自分の現状を認識し、一歩を踏み出すきっかけになればと考えたからである。

 

働いて飯を食い、日々の暮らしを立てる。

誰でもやっていることだ。

 

私もそれを始めたい。

家族と、自分のために。