鬱(うつ)病・アルコール依存症・日々のつぶやき

2014年、うつ病・アルコール依存症デビュー。うつの波にぐっと耐えつつ、前向きな日々を送っています。読んで楽しい気持ちになってもらえたらうれしいです。

うつの水際で踏みとどまる

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昨日より今朝まで、陸に打ち上げられたヘドロみたいなひどい状態だったのだけれども、なんとか踏みとどまることができた。突然叩き込まれた真っ暗な精神状態のなかで、前向きな自分をわずかにでも残す(取り戻す?)ことができたのは、パートナーや猫たちのおかげだ。
 
独り暮らしだったら浮かび上がるのは難しかった。おそらく数日はろくな食事も摂ることなく膝を抱えて過ごしたりしたことだろう。その間にこの前みたく倒れたりしたらどうなってしまうかと考えると、家族のいる今の状況は本当にありがたいと思う。
 
この感謝の気持ちに対して、わたしは行動で答えたい。きちんと仕事をして稼ぎを得、大切な家族の力になりたいのだ。そして、仕事をする中でかつての日常を、自信とともに取り戻したい。
 
けれども、上手くできないでいる。外に出れば皆ごく当たり前に働いていて、大勢の人々がいろいろなストレスを抱えて日々頑張っている。わたしはそこまでたどり着けないでいる。情けないけれど、これはれっきとした事実だ。こんなに感謝しているのだから、感謝だけを原動力に踏ん張れないものだろうか……。
 
わたしは自分のスキルに自信を持っている。そして、同時にまったく自信を持てずにもいる。これまでに磨いてきたスキルや経験は今もここにある。一年あまりのブランクでいくらかは錆びついたはずだけれど、確かにここにある。
 
とにかく下を向いてうずくまっていても何も変わらないし、仕事も得られないし、お金も入ってはこない。今こんな精神状態ではあるけれど、ちょっとずつでも日々確実に何かを積み重ねていかなくては。
 
ときどき、わたしは鬱という名前の被り物かなにかを着込んで安心しているだけなのでは……と思う。甘えているだけなのではないかと。
 
昨年までのわたしをよく知る古い付き合いの友人などは、わたしを指して「鬱とは最も遠い人間」なんていう。いいえ、いま鬱で……なんて言っても多分信じてくれないだろう。ポジティブで活動的、そこそこ自信もあり社交的な、頑張って若作りしている変わり者のおっさん。わたしはそういうキャラだったのだ。
 
なんとかそいつを表に引っ張り出さなくてはならない。引っ張り出せれば、あの目立ちたがりは簡単には引っ込まないだろうから。
 
今日は活力の復活を期待して、真っ赤なポロシャツを着て出てきた。これから100円ショップで必要な買い物をして、天気と相談しながらぶらっと気分転換に歩いて、帰宅するつもりだ。
 
夜はまた麻婆豆腐を作る予定。こないだ作ったばかりなのだけど、材料を買ってしまったのだ。パートナーは楽しみだー!なんて言ってくれる。やさしい人だ。
 
まだ、大丈夫。
 
画像のペヤング復活の日のもの。落ち着いたらまた食べたい。

突然のうつ到来

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突然、鬱の波が来てしまった。理由はわからないのだけれど、結構重いようだ。いきなりなぜ……このあいだの鬱ブログに引かれた影響なのかもしれない。
 
まだこうして記事を書けるのだから救いはある。けれども、きつい。昨日は昼前に出かけ、そこで鬱に転じ、気付いたらあたりが暗くなっていた。ずっとうつむいてベンチに座っていた。なんとか帰ってきたものの、その後は全くダメ。ぐったりと横たわり、午前2時過ぎに目覚めた。
 
頭が重く、心も目も死んでいる。
まずいな……いやな流れだ。ここから切り返せるか……。こんなではパートナーにも悪い影響を与えてしまう。
 
負けるものか。

自律神経失調とわたし

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わたしが付き合っているもののひとつに、自律神経失調症がある。文字通り自律神経がなんらかの原因で正常に働かなくなる症状で、元々意思とは関係なく自律的に体をコントロールしているものだけに、不調になると非常に難儀する。
 
わたしの場合はどうやらストレスと直結しているようで、強いストレスを感じているときに発症することが多い。つまり、うつが最もひどいときにダブルパンチでやってくる。これにアルコール依存性が加わってトリプルパンチである。
 
こうなると、体に異変が起きても、何が原因なのか見当もつかなくなる。直さなきゃ、という前向きな気持ちは死んでいるから何もしない。かつて末期寸前のガンで7カ月入院した際に、抗がん剤治療で養われた忍耐力は、少々のことではびくともしない。これが逆に災いして、体調も心もどんどんどんどん沈んでゆく。
 
幸い、どん底まで沈みきったことはない。家族がいるからだ。特発性過眠症と闘うパートナーの姿や、ちこたんやぶーぶの存在が、深い沼の底からわたしの心を引き上げてくれるのだ。
 
うつに関していえば、最近は本当に落ち着いている。けれども具体的に動くことができないのは相変わらずだ。今週はそのあたりを改善していかなければ。このまま生きていくことはできないんだから。
 
最後に、自律神経失調で手の皮がもろもろになったときの画像など載せてみようかと。さほどグロくはないけれど、気持ち良いものではないので、見たくない方はここでページを離れてください。
 
それでは。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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鬱の共振

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あちこちブログを見て回っていたところ、うつの方が書かれた記事に突き当たった。
 
そこには絶望と無気力、自責、そして無。それらに押しつぶされそうになりながらも、わずかに残された心を頼りに最期のところで踏みとどまっている様子が綴られていた。
 
わたしは描かれた心境に深く共感した。それはまさしく、ほんの少し前のわたしの目の前にあったものだった。あった、と言っても、今視界の外にあるだけの話で、依然としてわたしの中にそれは存在している。そうだった。なくなったわけではないのだった。あれはいつでもわたしの目の前に戻ってこれるんだ。
 
はっ、と我に帰る。
知らぬ間に薄暗い部屋の角で座り込んでいた。iPhoneの画面にはブログの記事が表示されていたけれど、目は開いていたけれど、わたしはなにも読んでいなかった。なにも見ていなかった。1時間ほどの時間が経過していた。
 
危なかった……共振、とでも言うのだろうか。当時のわたしにあまりにも酷似した内容にすっかり引き込まれ、わたし自身が当時に戻りかけていたようだった。
 
ふと見ると傍に愛猫が寄り添ってくれていた。顔を上げてウンガ?と鳴きかけてスリスリしてくれた。抱き上げて「やばかったよー!ちこたんがいなかったら戻ってこれなかったかも……ありがとうね」とお礼を言った。ふわふわの柔らかな毛が肌に心地よかった。ちこたんは喉を鳴らして大人しく抱かれていた。部屋の入り口にはぶーちゃんが座っていた。ふたりで守ってくれていたんだ。
 
ぶーちゃんにお礼を言って部屋に戻ると、パートナーが眠っていた。近づくと目を開けて、「添い寝してやった」と言った。そういえば、わたしは朝、採れたてのとうもろこしと枝豆を買いに出かけ、帰宅してそのまま眠ってしまったのだった。パートナーは帰宅時、別な場所で眠っていたが、わたしが戻って眠っているのを見て添い寝してくれたのだろう。なんて素敵な家族。
 
もうほぼ大丈夫だけれど、わずかに暗いものが残ったのを感じる。しっかりしっかり。他人の言葉に引きずられて鬱に戻るなんて弱すぎるじゃあないか。わたしの心の松岡修造兄貴も「強くなれよ!」と言っている。しかし照英は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
 
明日からはまた平日だ。
仕事はないけれど、ちゃんと暮らそう。

また週末の朝を迎えた

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おはようございます。
6時すぎに目が覚めてからぼんやり過ごし、先ほど気分転換に外に出てきました。昨日とはうって変わっての晴天。雲がプカプカ浮かぶ青空は気持ちを開放的に、明るくしてくれます。
 
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わたしはショートスリーパーなので、1度の睡眠で3〜4時間くらいしか眠れません。1時に寝れば5時ころ目が覚め、まだ起きるには早いと横になりますが、眠れないときには一杯ひっかけて床につきます。それでも2度目の睡眠は2、3時間がいいところ。すぐに起きてしまいます。
 
普通に職に就いていたらこんなの尋常の暮らしではないのですが、1年以上も無職で鬱で……という暮らしをしている間になんとなくパターン化してしまいました。これは直さなければなりません。
 
以前は呑んで眠り、目覚めたらまた呑んで眠り、呑まないと思ったら膝を抱えて数時間ぼんやり……また呑んで眠る、ということを延々と繰り返していました。。元々たくさん眠れない人間が、起きても絶望や無力感、自責の念と向き合う以外ないという状況で、1日中睡眠に逃避するにはどうしたらよいか。覚醒したらただちに酒を呑んで泥酔するしかないのです。
 
確かにそういう状態でした、わたし。でも今はさまざまな熱意、社会復帰への意欲も戻りつつあります。この4日ほど、1日に2回ブログを更新しているのも、そんな自分を確認し記録する作業の一環です。なによりみなさんにも見ていただけますし……。
 
今日はパートナーと激辛味噌ラーメンを食べに行く予定です。日々頑張ってとうとう縁のありそうな会社の二次面接に漕ぎ着けたパートナーのおかげで、わが家は今明るい雰囲気です。このムードのまま行きたいなあ……そして採用されるといいなあ。
 
味噌ラーメン、口コミでは辛さはさほどでもないようだけど、かなりおいしいそう。楽しみ!わたしはパートナーと一緒に外出するのが大好きなのです。
 
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うむ、とりあえず帰って朝ごはん食べよう。昨日パートナーが煮てくれた豆(絶品)、麻婆豆腐、納豆あたりを食べようかな。
 
わたし、まだまだ好調。上向き。
皆さま良い週末をお過ごしくださいね!
 
……なんか気づいたら文章がですます調に。なにか心境の変化があったのかしら。

やらないこと。やり続けること。

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この鬱&アルコール依存症ブログ、更新はいつもiPhoneからしている。今日は珍しくPCから。ずっとデザインやグラフィックの仕事をしてきた関係で、わたしのデスクトップ環境は見た目かなりそれっぽくなっている。ミドルタワー型のWindowsマシンに27インチのデュアルモニタに大型のペンタブレット、プリンタ2台にMacBook Pro、その横にはiPad miniiPhoneが並んでいる。ううーん、デザイナーっぽい!

 

でも今使っているメインPCは性能が猛烈に普通なので、グラフィックソフトなどの動作は昨年秋に突然壊れるまで4年くらい使っていた旧PCよりも遅い。「ああ、あそこでケチらなければよかった……」と後悔している面もあるけれど、なにしろあの頃から今に至るまで収入らしい収入がないのだもの。節約はやっぱり正しい選択だった。何か始めてお金が入ってくるようになったら、またちゃんとしたスペックのものを買えば良い。今は身の丈にあった暮らしを心がけなくては。

 

イラストレーター志望の若い子たちなんて、信じられないような低スペックマシンと猫の額より狭いペンタブレットしかなくたって、良い作品を日々どんどん生み出している。スペックが充分でないことなんて何も生み出せないことの言い訳にはならない。納期が目前に迫った商業の仕事をしているわけじゃないんだから、動作がちょっとくらい遅くたって、待てばいいのだ。今は時間あるんだから。待ち時間で新しいアイデアだって練ることができる。

 

何かをすれば、何かが生まれる。何かが始まる。跡が残る。コロン。

また何かをすれば、2つ目の何かが生まれ、2つの「やったこと」を結んだ線(=道)ができる。何かをし続けることで、道ができあがり、その道の両側には自らが生み出した有形無形の成果物が建造物のように立ち並んでゆく。その風景やありようは、あとからその道に入って来たり、迷い込んできた人たちを刺激し、助け、時には救い導くことだってある。もしいつか倒れてしまって行き止まりになっても、誰かが志を継ぎ、道は色や雰囲気を変えながらいつまでもいつまでも続いていく。

 

世の中はそうした道が縦横無尽に走ってできている大きな街のようなものなのだろう。時に交差し、合流し、並走し、広くなったり狭くなったり、荒れたり整備されたりしながら、形なき人間の社会やこころの世界を開拓しつなげてゆくのだ。

 

今、わたしの道は完全に行き止まりになっている。でも、それはわたしが道を作ろうとしないからだ。大地は今もわたしを拒むことなく目の前に広がっている。道具だって高性能ではないけれど手元に揃っている。道の作り方だって知っている。あちこち病んではいるけれど、一応は五体満足だ。ほれ、あと少しじゃあないか。

 

道作る人々は、立派な道具がなくたって、そのへんの枝や石を使って進んでゆく。枝も石もなければ己の身体のみで切り開いてゆく。情熱のため、夢のため、生活のため、志のため……理由はさまざまだけれど、道を作り続けることを決してやめない人間たちだ。

 

道を作れなくなった人、作らなくなった人にもそれぞれ理由がある。それは誰かが取り沙汰して責めるようなものではない。座り込んでしまうことは罪ではない。だから、誰かが時機を見て優しく寄り添い、しばらくの間一緒に道を作ることも、ときには必要だ。

 

今は両親やパートナー、猫たち、そして親しい友人たちが一緒に歩いてくれている。ときおり立ち上がって、目の前の開拓地をささやかに掘り均(なら)したりもするようになってきた。このブログだって、なんてことはないものだけど、ひとつのかたちだ。だって今、あなたが読んでくれているもの。

 

膝の上で丸くなっているニャンの体温が上がってきて、わたしは軽く汗ばんでいる。このあとはグラフィックソフトを立ち上げて、何かしてみよう。

子猫と公園とうつ病テスト

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午前2時過ぎ。こんな時間だけど、ふと目が覚めたら、子猫が母猫を呼ぶような声が外から聞こえてきたので外に出た。愛猫も声に反応して鳴き返したりしていたし、まず猫に間違いないだろう。ベランダに出て耳をすませたが、どこぞで男女の夜の営みが盛大に行われているというわけでもなさそうだ。
 
これは運命の出会いかもしれない……なんて思っていそいそと外に出て、鳴き声のする方向に耳を澄ませた……が、ほどなくその声は止んでしまった。母猫が来たのか、それともわたしのように声に誘われて出てきた誰かに拾われたのかはわからない。
 
ずっと鳴いていたのに、出るなり鳴き止むなんて……縁がなかったか……ちょっと肩を落としてコンビニに入った。月曜発売の雑誌がたくさん、並んでいた。新しい週が始まるんだ。
 
子猫、大丈夫かなぁ……などといろいろ考えながら少し歩き、気がつけば深夜の公園おじさんふたたび。でも、以前のように盲となって沼地の底に呆然と座り込んでいるような心境ではなく、極めてニュートラルで軽快な感じ。夜風が気持ちいい。
 
今、こころの状態はかなり良いのだと思う。あと少しで世の中をバンバン叩いてレスポンスを楽しんでいたころの自分を取り戻すことができそうな、そんな予感がする。(逆に言うと、気持ちが明るいだけで特に何もしていないのだけれど……)
 
結局、今に至るまで心療内科の受診は受けていない。鬱と判断され、薬を処方してもらったら楽になることもあるのだろうけれど、ガンとかケガと違って、心の病というものはなんだか正体が明らかでない感じがして、わたしはこれに該当することがとてもこわいのである。シュレディンガーの猫じゃないけれど、病名が確定しない限り、わたしはその病ではないんだ……みたいな。子供か。
 
そういえばパートナーが以前持ってきてくれたうつ病のテストみたいなのがずっとリビングにある。こわいのと、回答をひとつに絞れない自分がいるのとで、結局やっていない。例えば「自分なんて価値がない。すぐにでも死んでしまいたい」という質問に対して、「はい」、「いいえ」では答えられないのだ。
 
価値がないと思う自分もいるし、そんなことはないと思う自分もいる。死んでしまいたいとは思わないけど、消えてなくなりたいとは思うときもあった。死ぬことと消えて無くなることって社会的には同じなのでは……?うーむ、ちょっと違うんだよなぁ。死に向かうスタンスが。ともかく自分の中にある相反する意識が、このテストに答えることを難しくしている。
 
悪いほうの考えで答えればうつ確定、しかし良いほうで答えたらうつではなさそう。もしかしたら、こうした葛藤のようなものがあるうちは、まだ大丈夫なのかな……そんなことを考える。
 
子猫ちゃん、また鳴いてないだろうか。もう少し探してから、部屋に戻って寝よう。
 
パートナーはまだロングスリープの流れにあるようで、昼間少し起きていたけどずっとお布団。わたしはその間に二郎で撃沈。この普通ではないふたりの暮らしは、わたしは嫌いではない。なんとかしなくちゃではあるけれども……。

自転車で富士山を登ってきました。

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わたしはこの数年来、ロードバイクを趣味にしている。

うつ病やら自律神経失調やら肝機能障害やら痛風やらといったものを患う以前からこの趣味は始まり、今も続いている。とはいっても、頻度は月に一度にも満たないのだから、趣味といっていいのかといえば、微妙なところだ。

さて、先週のことになるけれど、表題の通り仲間に誘われて富士山に行ってきた。ロードバイクに乗って、「富士すばるライン」(約24キロ)をえっちらおっちらと登る、いわゆるヒルクライムというものだ。ただ坂を延々と登るだけ。とても地味で過酷な競技だけれど、肉体と向き合い、己の心と語り合いながらゴールまでたどり着いたときの達成感は格別だ。それと、道中の精神的な静寂感がたまらないのである。(ただし、体の方は目一杯で死にそうになります)

半月前に突然失神して救急車で搬送されたわたしが、ろくに回復もしないまま富士を登るのはおそらく体に良くないことだろう。けれど、ゴールまで走り切れたら何かが変わるような気がして、行くことにした。富士の雄大な景色の中で足掻いて、仲間とともにゴールまで走って、この停滞した気分を変えたい。そんな思いで出掛けた。

この1年の寝たきり暮らしですっかり身体が衰えてしまい、長年サッカーで鍛えた下半身は別人のようにしょぼしょぼ。お尻も太もももすっかりスリムになってしまった。比例してパワーも出なくなり、自転車を漕ぐ力も弱まった。それでも、面白いものでそれなりの乗り方というものがあり、試行錯誤し工夫しながら諦めずに漕ぎ続ければ必ずゴールできる。なにしろゴールまで道は必ず続いているのだから。単純なことだけれど、確実で、とても励みになる。

以前は足をつくことなくゴールである5合目まで一気に行けたけれども、今回は何度も足をついて休んだ。途中、3合目あたりから目眩がひどくなり、車道側に落車もした。観光バスの前に投げ出されたけれど、バスはうまく避けてくれた。再び起き上がり、意識朦朧としながらよろよろと登り続け、「必ずゴールしよう」と心に決めてペダルを回した。

すでに登りを終えた自転車乗りたちが下りがてら声をかけてくれる。「がんばれー!」「ファイットォー!」返事をする余裕はないけれど、すごく元気が出る。

両脚は肉離れ寸前。必死に誤魔化しながら登る。心拍数もずっと190ほどのまま。苦しい。でも、ペダルを回し続ける。とにかく、足をつこうが休もうが自力で五合目まで行くんだ……その想いだけを胸にひたすら漕ぐ。

まっすぐ走ることもおぼつかなくなった頃、最後の急坂が見えてきた。必死で登って、ゴール。先にゴールしていた仲間から声がかかる。

やった!
ゴールできた!

ああ、来て良かった……と思った。転んでもつまづいても、諦めないで一歩一歩進み続け、ゴールする。この体験はわたしのような弱い人間にとっては黄金のような体験なのだ。

タイムは自己ベストよりはるかに遅かった。でも、達成感は今までで一番かもしれない。誘ってくれた仲間、そしてただただ雄大で懐深い富士山に感謝。

まだ心は鬱に沈むことが多いけれど、その中で前向きな気持ちが湧いてくることが増えてきた。このビッグウェーブに乗ってみせる!!なんて思いながら、今日もわたしは生きている。たくさんの人に支えられて生かされている。

がんばれ自分。

あ、そうそう。
わたしのヒルクライマーとしての実力は、全競技者の下位10%くらい。命がけで全てを振り絞って走ってはいるものの、超遅いのが実情である。悲しい(笑)

その後のわたし

Blog更新の停止を宣言してから10日。わたしはまだこうして生きている。

 
両親の助けを受けていくつかの気がかりを解消し、わたしは幾分か自由になれた。あとは社会に復帰するだけなんだ。でも、それが困難を極めている。どうしても動けないでいる。あと一歩が踏み出せない。
 
鬱なんだろうか、気がつくと己の内深くに沈み込んでしまって身動きが取れなくなっている。落ち込むとか悲しいとかではなく、あるのは虚無。その中に佇んでいるような。ホルマリン漬けの標本にでもなったみたいな気分。
 
これではいけないと、昨日からは部屋の明かりをつけてパソコンに向かうようにした。ともかく常時何かをして己が自分の内に沈まないようにする。とても大切なことのように感じた。
 
仕事を始めたらおそらく鬱になっている暇はなくなるだろうから、わたしの性格上少しずつ平常に戻ってゆくのだと思う。今は暇なのも良くないんだ。仕事はしていなくとも毎日タスクを決めてこなしていくようにしなければ。
 
パートナーは連続睡眠が3日続いたかと思うと、その後は早朝から起きて家事をしたりとまだまだ不安定な状態。我々はお互いに悪い影響を与えあっている面があり、同時に互いの存在に強く強く助けられてもいる。わたしは、もっとしっかりしなくては。
 
寝転がったり、座り込んだりして1日を過ごすと何も残らない。昨日日曜日だったはずなのに、明日また日曜日だったりする。何もしない一週間なんてあっという間だ。過ぎてみればただ絶望感だけが残り、それがまた自分を責める。何をしているんだよ、と。
 
昼夜問わず公園おじさんしていたのも、少しでも動いて何かを……という気持ちからだった。今も同じ気持ちでパソコンに向かっている。眠りこけているときと違い、何かしらをしていると、前向きな気持ちになる瞬間がある。それは大きなチャンスだ。その波に乗って一気に進む機会を、わたしははかっている。
 
この10日で、かつて迷惑をかけた人たちや、声をかけてくれていたのにレスポンスできなかった人たちに連絡を取ることができた。皆優しく、そしてわたしの心の傷になっていた事柄は幾人かの人たちの中ではとっくに忘れ去られていた。
 
過去の不始末に対しての謝罪は済ませた。音信不通もひとまず解消した。わたしはとうとう1年半前の自分に戻ることが可能になった。
 
でも、一歩が出ない。どうしても踏み出せない。やることはわかっている。それが容易なことも。
 
外に出たい。人と関わりたい。働きたい。笑いたい。パートナーと旅行行きたい。結婚したい。……したいことはたくさんある。頑張って体を動かせ、わたし。
 
世の中は打てば響く水面のようなもので、叩きかたこそあれ、暖かくエモーショナルなものだ。叩きかたは知っているんだ。それはこれまでの人生で学んできた。
 
あとは、叩くだけなんだ。
腕を高く上げ、強く振り降ろせ!
 
パートナーの特発性過眠症は間違いなく病だ。意志の強さや何かでどうにかなるものじゃない。ずっとそばで見てきたからわかる。でもわたしのは怠け病と臆病なんじゃないか。そんな風に思う。
 
必ず打ち勝ってみせる。
わたしに足りないのは、傍目に正視しかねるほどの、みっともないくらいの必死さだ。生きるための決意、家族を守るための覚悟だ。
 
……いろいろ考え続けて、ここのことを思い出して、Blog再開してみました。たぶんまた書きます。
 
書くと少し、心が軽くなる。

母と再会、公園おじさんはひとまず完

これまで秘めてきた全ての事柄について、母に包み隠さず話した。絶望と悲しみ、情けなさと申し訳なさなどが強く表れ、あまりに辛くなり、身体が小刻みに震えはじめ、気絶してしまった。

 
救急車が呼ばれ、私は母とパートナーに付き添われてすぐに病院に運ばれた。どうなるかと思ったけれど、幾つか検査して、肝臓の数値が悪いことを指摘されたものの、その他は異常なかった。アルコールを控えることが勧められた。
 
私は逃げていた。そして立ち行かなくなった。母に助けを求めた。こんなことを何度も繰り返してきた。これが最後だ。
 
急にテキパキと明日から動けるとは思えないが、毎日リストを作り、必要な連絡をし、一歩目を歩みだそうと思う。
 
夜朝と時間問わず公園に逃げていた私だけれど、具体的行動によってそれを変えてゆこう。
 
一人で抱え込んでいた全てを、母とパートナーに打ち明けることができ、私の心は本当に軽くなった。救ってもらった。私もパートナーを救いたい。両親に恩を返したい。
 
まだ暗く重い、まとわりつくような感情は、消えない。これだけ未来に対して見通しが立っても、私は怖いんだ。公園に行きたい気もする。しかし、あれは気分転換ではなく逃避だったんだ。しばらくは止め、規則的な生活を続ける努力をしっかりと続けてゆく。
 
みんな、やっていることだ。
きっとやれる。
 
このブログの更新は、ひとまず終了するつもりだ。違う形での何かは始めると思うけれど、それはまた別のサービスやアカウントでやることにしようかな。
 
みなさん、ごきげんよう。f:id:restart15515:20150525002228j:image
今まで読んでくださった方に心からお礼申し上げます。どうかお達者で。
 
あ、でもまた時間が経ってここで書きたくなればどんな内容であれ、書いてみようと思います。